旅僧 杜若の精

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。我此 間は都に候ひて。洛陽の名所旧跡のこり なく一見仕りて候。又これより東国行脚 と心ざし候。道行「夕々の仮枕。/\。宿 はあまたにかはれども。同じ憂き寝の美 濃尾張。三河の国に着きにけり/\。 詞「急ぎ候ふ間。程なう三河の国に着き て候。又これなる沢辺に杜若の今を盛と 見えて候。立ちより眺めばやと思ひ候。

げにや光陰とゞまらず春過ぎ夏も来て。 草木心なしとは申せども。時を忘れぬ花 の色。かほよ花とも申すやらん。あら美 しの杜若やな。 シテ詞呼掛「なう/\御僧。何しにその沢には 休らひ給ひ候ふぞ。ワキ詞「これは諸国一見 の者にて候ふが。杜若のおもしろさに眺 め居て候。さてこゝをばいづくと申し 候ふぞ。シテ「これこそ三河の国八橋とて。

杜若の名所にて候へ。さすがにこの杜若 は。名におふ花の名所なれば。色も一し ほ濃紫のなべての花のゆかりとも。思ひ なぞらへ給はずして。取りわき眺め給へ かし。あら心なの旅人やな。ワキ詞「げにげ に三河の国八橋の杜若は。古歌にもよま れけるとなり。いづれの歌人の言の葉や らん承りたくこそ候へ。シテ「伊勢物語に いはく。こゝを八橋といひけるは。水行 く川の蜘蛛手なれば。橋を八つ渡せるな り。其沢に杜若のいと面白く咲き乱れた るを。ある人かきつばたといふ五文字を 句の上に置きて。旅の心をよめと言ひけ れば。唐衣着つゝなれにし妻しあれば。 はる%\来ぬる旅をしぞ思ふ。これ在原 の業平の。此杜若をよみし歌なり。ワキ「あ ら面白やさてはこの。東のはての国々ま でも。業平は下り給ひけるか。シテ詞「こと 新しき問事かな。此八橋のこゝのみか。猶

しも。心の奥ふかき名所々々の道すがら。 ワキ「国々ところは多けれども。とりわき 心の末かけて。シテ「思ひわたりし八橋の。 ワキ「三河の沢の杜若。シテ「はる%\ きぬる旅をしぞ。ワキ「思の色を世に残 して。シテ「主は昔になり平なれども。 ワキ「かたみの花は。シテ「今こゝに。 地歌「在原の。跡な隔てそ杜若。/\。沢 辺の水の浅からず。契りし人も八橋の蜘 蛛手に物ぞ思はるゝ。今とても旅人に。 昔を語る今日の暮やがて馴れぬる。心か なやがて馴れぬる心かな。 シテ詞「いかに申すべき事の候。ワキ詞「何事 にて候ふぞ。シテ「見ぐるしく候へども。わ らはが庵にて一夜を御明し候へ。ワキ「あ らうれしややがて参り候ふべし。物着「。 シテ「なう/\此冠唐衣御覧候へ。ワキ「不 思議やな賎しき賎の臥処より。色もかゝ やく衣を着。透額の冠を着し。これ見よ

と承る。こはそも如何なる事にて候ふぞ。 シテ「これこそ此歌によまれたる唐衣。高 子の后の御衣にて候へ。又此冠は業平の。 豊の明の五節の舞の冠なれば。かたみの 冠唐衣。身に添へ持ちて候ふなり。 ワキ「冠唐衣は先々置きぬ。さて/\御身 は如何なる人ぞ。シテ「誠は我は杜若の精 なり。植ゑおきし昔の宿の杜若と。よみ しも女の杜若に。なりし謂の言葉なり。 又業平は極楽の。歌舞の菩薩の化現なれ ば。詠みおく和歌の言の葉までも。皆法 身説法の妙文なれば。草木までも露の恵 の。仏果の縁を弔ふなり。ワキ「これは末 世の奇特かな。正しき非情の草木に。言 葉をかはす法の声。シテ「仏事をなすや業 平の。昔男の舞の姿。ワキ「これぞ即ち歌 舞の菩薩の。シテ「仮の衆生となり平の。 ワキ「本地寂光の都を出でて。シテ「普く 済度。ワキ「利生の。シテ「道に。地次第「はる

ばる来ぬる唐ころも。/\。着つゝや舞 を奏づらん。シテ「別れこし。跡の恨の唐 衣。地「袖を都に。返さばや。イロエ「。 シテクリ「そも/\この物語はいかなる人の何 事によつて。地「思の露の信夫山。忍びて 通ふ道芝の。始もなく終もなし。シテサシ「昔 男初冠して奈良の京。春日の里に知るよ しして狩にいにけり。地「仁明天皇の御宇 かとよ。いともかしこき勅をうけて。大 内山の春がすみ。立つや弥生の初めつか た。春日の祭の勅使として透額の冠を許 さる。シテ「君の恵の深き故。地「殿上にて の元服の事。当時その例稀なる故に。初 冠とは申すとかや。 クセ「然れども世の中の。一度は栄え。一 度は。衰ふる理の誠なりける身のゆく へ。住所求むとて。東の方に行く雲の。 伊勢や尾張の海面に立つ波を見て。いと どしく過ぎにし方の恋しきに。羨ましく

も。かへる浪かなとうち詠めゆけば信濃 なる。浅間の嶽なれや。くゆる煙の夕気 色。シテ「さてこそ信濃なる。浅間の嶽に 立つ煙。地「遠近人の。見やはとがめぬと 口ずさみ猶はる%\の旅衣三河の国に着 きしかば。こゝぞ名にある八橋の。沢辺 に匂ふ杜若。花紫のゆかりなれば。妻 しあるやと思ひぞ出づる都人。然るに此 物語。その品おほき事ながら。とりわき此 八橋や。三河の水の底ひなく。契りし人 人のかず/\に。名をかへ品をかへて。 人待つ女物病み玉すだれの。光も。乱れ て飛ぶ蛍の。雲の上までいぬべくは。秋 風吹くと。仮にあらはれ衆生済度の我ぞ とは知るや否や世の人の。シテ「暗きに行 かぬ有明の。地「光普き月やあらぬ。春 や昔の春ならぬ我が身ひとつは。もとの 身にして。本覚真如の身を分け陰陽の神 といはれしも。唯業平の事ぞかし。斯様に

申す物がたり疑はせ給ふな旅人遥々来ぬ る唐衣。着つゝや舞をかなづらん。 シテ「花前に蝶まふ。紛々なる雪。地「柳上 に鶯飛ぶ片々たる金。序ノ舞「。シテ「植ゑ 置きし。昔の宿の。かきつばた。地「色ば かりこそ昔なりけれ。/\色ばかりこそ。 シテ「むかし男の名を留めて。花橘の。匂 うつる。菖蒲の鬘の。地「色はいづれ。似 たりや似たり。杜若花菖蒲。梢に鳴くは。 シテ「蝉の唐衣の。地「袖白妙の卯の花の 雪の。夜も白々と。明くる東雲の浅紫 の。杜若の。花も悟の。心開けて。すは や今こそ草木国土。すはや今こそ。草木 国土。悉皆成仏の御法を得てこそ。失せ にけれ。