狩野介宗茂 千手 平重衡

ワキ詞「これは鎌倉どのゝ・御内{みうち}に。・狩野介{かのゝすけ} ・宗茂{むねもち}にて候。さても相国の御子・重衡{しげひら}の卿 は。此たび一の谷の・合戦{かせん}に生捕られ給ひ候 ふを。・某{それがし}預り申して候。朝敵の御事と は申しながら。頼朝いたはしく思し召さ れ。よく痛はり申せとの御事にて。昨日 も・千手{せんじゆ}の前を遣はされて候。かの千手の

前と申すは。・手越{てごし}の・長{ちやう}が娘にて候ふが。 ・優{いう}にやさしく候ふとて。おん身近く召し 使はれ候ふを遣はされ候ふ事。まことに 有難き御志にて御座候。今日はまた雨 中御つれ%\。酒を勧め申さばやと存 じ候。 シテ次第「琴の・音{ね}添へて訪るゝ/\これ

や東屋なるらん。サシ「それ春の花の樹頭 に栄え。秋の月の水底に沈むも。世のは かなさの有様を。見てもあはれや重衡の。 その古は雲の上。かけても知らぬ身のゆ くへ波に漂ひ舟に浮き。さらばよるべの。 よそならで。有りしにかへる。有様かな。 下歌「都にだにも。留めぬ御涙なるを痛は しや。上歌「・陸奥{みちのく}の。しのぶに堪へぬ雨の 音。/\。降りすさみたるをりしもは。 思の露もちり%\に心の花もしを/\ と。しをるゝ袖の色までも。今日のゆふ べの。たぐひかな今日のゆふべのたぐひ かな。 シテ詞「いかに案内申し候はん。ワキ詞「誰に てわたり候ふぞ。シテ「千手の前が参りた るよし。それ/\御申し候へ。ワキ「暫く 御待ち候へ。御機嫌を以て申さうずるに て候。 ツレサシ「身はこれ・槿花{きんくわ}一日の栄。命は・蜉蝣{ふいう}

の定なきに似たり。心は蘇武が胡国 に捕はれ。岩窟の内に籠められて。・君辺{くんべん} を忘れぬ志。それは・やうり{衛律/揚李}が・謀{はかりこと}にて。 敵を亡ぼし旧里に帰る。我はいつとなく 敵陣に籠められて。・縲絏{るゐせつ}の責を受くる。 知らず今日もや限ならん。あら定なや ・候{ざふろふ}。 ワキ詞「いかに申し上げ候。千手の御参 にて候。ツレ詞「唯今は何のためにて候ふ ぞ。よし/\何事にてもあれ。今日の対 面は叶ふまじきと申し候へ。ワキ詞「畏つて 候。いかに申し候。御参の由申して候 へば。何と思し召し候ふやらん。今日の 御対面は叶ふまじきよし仰せ出されて 候。シテ詞「これも私にあらず。頼朝よりの 御諚にて。琵琶琴持たせて参りたり。此由 かさねて御申し候へ。ワキ詞「御諚の趣申し て候へば。これも私にあらず。頼朝より の御諚にて。琵琶琴持たせて参りたり。

よし/\御憚はさる事なれども。ワキ「たゞ こなたへと請ずれば。シテ「その時千手立 ちよりて。地歌「妻戸をきりゝと押し開 く。御簾の追風にほひ来る。花の都人に。 恥かしながら見みえん。げにや・東{あづま}のはて しまで。人の心の奥深き。その情こそ都 なれ。花の春紅葉の秋。誰が思出となり ぬらん。 ツレ詞「いかに千手の前。昨日あからさま に申しつる。出家の御暇の事聞かまほし うこそ候へ。シテ詞「さん候其由申して候 へば。朝敵の御事なるを私として。出家 を許し申さん事。思ひも寄らずとこそ候 ひつれ。わらはも御心のうち。おしはか り参らせて。いかほど・細々{こま%\}と申して候へ ども。かひなき出家の・御望{おんのぞみ}。痛はしうこ そ候へ。ツレ「口惜しや・我{われ}一谷にて如何に もなるべき身の生捕られ。今は東のはて までも。かやうに・面{おもて}をさらす事。・前世{ぜんぜ}の

報といひながら。又思はずも父命により。 仏像を亡ぼし人寿を断ちし。現当の罪の 果すこと。前業よりなほ恥かしうこそ候 へ。シテ「げに/\是は・御理{おんことわり}さりなが ら。かゝる・例{ためし}は・古今{いにしへいま}に。多き習と聞く ものを。独とな嘆き給ひそとよ。ツレ「げ によく慰め給へども。たぐひはあらじ憂 き身の果。シテ「昨日は都の花と栄え。 ツレ「今日は東の春に来て。ツテ「移り変 れる。ツレ「身の程を。地歌「思へたゞ。世 は空蝉の唐衣。/\。着つゝ馴れにし妻 しある。都の雲居を立ち離れ。はる%\ 来ぬる。旅をしぞ思ふ・衰{おとろへ}の。憂き身の はてぞ悲しき。水ゆく川の八橋や。蜘蛛 手に物を思へとは。かけぬ情の中々に馴 るゝや恨なるらん馴るゝや恨なるな らん。 ワキ「今日の雨中の夕の空。御つれ%\を 慰めんと。・樽{そん}を抱きて参りつゝ既に酒宴

を始めんとす。シテ「千手も此よし見るよ りも。御酌に立ちて重衡の。御前にこそ 参りけれ。ツレ「今はいつしか憚の。心 ならずに思はずも。手まづ遮る盃の。心 一つに思ふ・思{おもひ}。ワキ「それ/\いかに何 にても。御肴にと勧むれば。シテ「その時 千手とりあへず。羅綺の・重衣{ちようい}たる。情な き事を機婦に妬む。シテ、ワキ、ツレ三人「只今詠じた まふ朗詠は。忝くも北野の・御作{ごさく}。此詩 を詠ぜば聞く人までも。守るべしとの御 誓なり。ツレ「さりながら重衡は今生の望 なし。三人「たゞ来世の便こそ聞かまほし けれと宣へば。シテ「わらは仰を承り。 十悪といふとも・引摂{いんぜふ}すと。地「朗詠して ぞ。奏でける。イロヱ「。 シテクリ「さてもかの重衡は。相国の末の御子 とは申せども。地「・兄弟{けいてい}にも勝れ一門にも 越えて。・父母{ぶも}の寵愛。かぎりなし。シテサシ「さ れども時うつり。平家の運命こと%\く。

地「月の夜すがら声たてゝ。鳴くや牡鹿 の津の国の。生田の河に身を捨てゝ防ぎ 戦ふと申せども。シテ「森の下風木の葉の 露。地「落されけるこそあはれなれ。 クセ「いまは梓弓。よし力なし重衡も。引 かんとするにいづかたも。網を置きたる 如くにて。遁れかねたる淀鯉の。生捕ら れつゝ有りて憂き。身をうろくづの其ま まに。沈みは果てずして。名をこそ流せ 川越の。重房が手に渡り心の・外{ほか}の都入。 シテ「げにや世の中は。地「定めなきかな 神無月。時雨降りおく奈良坂や。衆徒の 手に渡りなば。とにもかくにも果てはせ で。また鎌倉に渡さるゝ。こゝは何処ぞ 八橋の。雲居の都。いつか又。三河の国 や遠江。足柄箱根うち過ぎて。明けもや すらん星月夜。鎌倉山に入りしかば。憂き 限ぞと思ひしに。馴るればこゝも・忍音{しのびね}に あはれ昔を・思妻{おもひづま}の。灯暗うしては・数行{すかう}虞

氏が涙の。雨さへしきる夜の空。シテ「四 面に楚歌の声の内。地「何とか返す舞の 袖。思の色にや出でぬらん涙を添へて廻 らすも。雪の・古枝{ふるえ}の枯れてだに花咲く。 千手の袖ならば。重ねていざや返さん。 地「忘れめや。序ノ舞「。シテワカ「一樹の蔭 や。一河の水。地「皆これ他生の縁といふ。 白拍子をぞ謡ひける。ツレ「その時重衡興 に乗じ。地「その時重衡興に乗じ。琵琶を 引きよせ弾じ給へばまた玉琴の。・緒合{をあはせ}に。 シテ「合はせて聞けば。地「峰の松風通ひ 来にけり。琴を枕の短夜のうたゝ寝。夢 も程なく。東雲もほの%\と。明けわた る空の。シテ「あさまにやなりぬべき。 地「あさまにやなりなんと。酒宴を止め 給ふ御心のうちぞいたはしき。 地「かくて重衡勅により。/\。また都 にとありしかば。・武士{ものゝふ}守護し出で給へ ば。シテ「千手も泣く/\立ち出で。地「なに

中々の憂き契。はやきぬ%\に。引き 離るゝ袖と袖とのつゆ涙。げに重衡の有

様目もあてられぬ。気色かな目もあてら れぬ気色かな。