方士 楊貴妃

ワキ次第「我がまだ知らぬ東雲の。/\。 道を何処と尋ねん。詞「是は唐土玄宗皇帝 に仕へ申す方士にて候。扨も我が君政 正しくまします中に。色を重んじ艶を専 とし給ふにより。容色無双の美人を得給 ふ。楊家の娘たるに因つて其名を楊貴妃 と号す。然れどもさる子細あつて。馬嵬が 原にて失ひ申して候。余りに帝歎かせ給 ひ。急ぎ魂魄の在所を尋ねて参れとの宣 旨に任せ。上碧落下黄泉まで尋ね申せど も。更に魂魄の在所を知らず候。茲に未

だ蓬莱宮に至らず候ふ程に。此度蓬莱宮 にと急ぎ候。道行「尋ね行く。幻もがなつ てにても。/\。魂の在所は其処としも。 波路を分けて行く船の仄に見えし島山の。 草の仮寐の枕ゆふ。常世の国に着きにけ り。/\。詞「急ぎ候ふ程に。 蓬莱宮に着き て候。この処にて委しく尋ねばやと存じ 候。狂言シカ/\「。ワキ「有りし教に随つて蓬莱 宮に来て見れば。空殿盤々として更に辺 際もなく。荘厳巍々としてさながら七宝 をちりばめたり。漢宮万里の粧。長生驪

山のありさまも。これにはさらになぞら ふべからず。あら美しの所やな。詞「又教 の如く宮中を見れば。太真殿と額の打た れたる宮あり。まづこの所に徘徊し。事 の由をもうかゞはゞやと存じ候。 シテ「昔は驪山の春の園に。共に眺めし 花の色。移れば変る習とて。今は蓬莱の 秋の洞に。独り眺むる月影も。濡るゝ顔 なる袂かな。あら恋しの古やな。 ワキ「唐の天子の勅の使。方士これまで 参りたり。玉妃は内にましますか。シテ「な に唐帝の使とは。何しにこゝに来れるぞ と。九華の帳を押しのけて。玉の簾をか かげつゝ。ワキ「立ち出で給ふ御姿。シテ「雲 の鬢づら。ワキ「花の顔ばせ。寂寞たる御 眼のうちに。涙を浮べさせたまへば。 地「梨花一枝。雨を帯びたる粧の。/\。 太液の芙蓉の紅。未央の柳の緑も。これ にはいかで優るべき。実にや六宮の粉黛

の顔色の無きも。理や顔色のなきも 理や。 ワキ詞「如何に申し上げ候。さても后宮世 にまし/\し時だにも。朝政は怠り給 ひぬ。況んやかく ならせ給ひて後。 唯ひたすらの御歎 に。今は御命も危 く見えさせ給ひて 候。然れば宣旨に 任せ是まで尋ね参 り。御姿を見奉る 事。唯これ君の御 志浅からざりし 故と思へば。いよ いよ御痛はしうこそ候へ。シテ詞「実に/\ 汝が申す如く。今はかひなき身の露の。 有るにもあらぬ魂のありかを。これまで 尋ね給ふ事。御情には似たれども。訪ふ

につらさのまさり草。枯々ならば中々 の。便の風は恨めしや。又今更の恋慕の 涙。旧里を思ふ魂を消す。 ワキ「さてしも有るべき事ならねば。急 ぎ帰りて奏聞せん。詞「さりながら御形見 の物をたび給へ。シテ「これこそありし形 見よとて。玉の釵とり出でて。方士に与 へ給びければ。ワキ詞「いやとよこれは世の

中に。たぐひ有るべき物なれば。いかで か信じ給ふべき。御身と君と人知れず。 契り給ひし言の葉あらば。それをしるし に申すべし。シテ詞「実に/\これも理な り。思ひぞ出づる我も又。その初秋の七 日の夜。二星に誓ひし事の葉にも。地「天 に在らば願はくば。比翼の鳥とならん。 地に在らば願はくは。連理の枝とならん と誓ひし言を。密に伝へよや。私語なれ ども今洩れ初むる涙かな。地歌「されども 世の中の。/\。流転生死のならひと て。その身は馬嵬に留まり魂は。仙宮に 至りつゝ。比翼も友を恋ひ独り翅をかた しき。連理の枝朽ちて。忽ち色を変ずと も。同じ心の行くへならば。終の逢ふ瀬 を頼むぞと語り給へや。 ワキロンギ「さらばといひて出舟の。伴ひ申し帰 るさと。思はゞ嬉しさのなほ如何ならん その心。シテ「我は又。なになか/\に三

重の帯。廻り逢はんも知らぬ身に。よし さらば暫し待て。有りし夜遊をなすべし。 地「実にや驪山の宮の内。月の夜遊の羽 衣の曲。シテ「そのかざしにて舞ひしと て。地「又取りかざし。シテ「さす袖の。 地次第「そよや霓裳羽衣の曲。そよや霓裳 羽衣の曲そゞろに。濡るゝ袂かな。物着「。 シテ「何事も夢幻のたはぶれや。地「あは れ胡蝶の舞ならん。イロヱ「。 シテクリ「それ過去遠々の昔を思へば。いつを 衆生の始と知らず。地「未来永々の流転。 更に生死の終もなし。シテサシ「然るに二十五 有の内。何れか生者必滅の理に洩れん。 地「先天上の五衰より。須弥の四州のさ ま%\に。北州の千年つひに朽ちぬ。 シテ「いはんや老少。不定の境。地「歎の 中の歎とかや。シテ「我もそのかみは。上 界の諸仙たるが。往昔のちなみありて。 仮に人界に生れ来て。楊家の。深窓に養

はれ。いまた知る人なかりしに。君聞し 召されつゝ。急ぎ召しいだし。后宮に定 め置き給ひ。偕老同穴のかたらひも縁尽 きぬれば徒らに。又この島にたゞ一人。帰 り来りて澄む水の。あはれはかなき身の 露の。たまさかに逢ひ見たり。静かに語れ 憂き昔。シテ「さるにても。思ひ出づれば 恨ある。地「その文月の七日の夜。君とか はせし睦言の比翼連理の言の葉も枯々に なる私語の。笹の一夜の契だに。名残は 思ふ習なるに。ましてや年月馴れて程経 る世の中に。さらぬ別のなかりせば。千 代も人には添ひてましよしそれとても遁 れ得ぬ。会者定離ぞと聞く時は。逢ふこ そ別なりけれ。地「羽衣の曲。序ノ舞「。シテ「羽 衣の曲。稀にぞ返す。乙女子が。 地「袖打ち振れる。心しるしや。/\。 シテ「恋しき昔の物語。地「恋しき昔の物 語。尽くさば月日も移り舞の。しるしの釵

又賜はりて。暇申してさらばとて。勅使 は都に帰りければ。シテ「さるにても/\。 地「君にはこの世逢ひ見ん事も蓬が島

つ鳥。浮世なれども恋しや昔はかなや 別の。常世の台に。伏し沈みてぞ留ま りける。