女の亡霊 日蓮上人

ワキサシ「凡そ方便現涅槃。星霜二千二百余 廻。後五百歳中いま少し。広宣流布の時 を待ちて。妙法しゆとう繁昌の日。めで たかるべき。時節かな。地下歌「寂寞無人 声読誦この経典の窓の内。上歌「一念三千 の花薫じ。/\。我爾時為現清浄。光明 身の床の上に。一心三観の月満てり。衆生

の遊楽も今こゝに。身延山の風水も。読 誦の声添へて自然の露地なりけり。 シテ次第「松吹く風も法の声。/\。聞くやい かにと音すらん。サシ「面白や四方の梢も 秋ふけて。野辺の千草もさま%\に。錦 を彩る白露の。おのが姿をそのまゝに。 もみぢに置けばくれなゐなり。下歌「われ

もこの身をこのまゝに成仏の法ぞ頼もし き。上歌「いとけなき身の母にあひ。母に 逢ひ。飢ゑたる者の食を求め。はだかな る者の衣を得たるごとくなり。如渡得船 の海の面。さゝでそのまゝ至るべき。さ を投ぐる間も急げ人。御法に後るなよ御 法に後れ給ふな。 ワキ詞「われ心観の窓に向ひ。御経読誦の をりごとに。御身一時も怠る事なし。実に 心ざしの人と見えたり。そもいづくより 来れる人ぞ。シテ「これはこの山の遥の麓 に。草結びする女なるが。かく上人のこ の処に。いたり給ふは上行菩薩の。御再 誕ぞと忝くて。かゝる妙なる御法には。 値ふことかたき女人の身の。今待ち得 たる法の場に。いかでか怠り候ふべき。 ワキ詞「げに/\これは理なり。されども 遥の麓より。時を違へぬ御参詣。猶しも思 へば不審なり。御身はこの世になき人な。

委しく語り給ふべし。シテ詞「早くも心得給 ひたり。これはこの世に亡き者なるが。 さもありがたき上人の。御法に知遇の度。 重なりて。苦患を免かれ今は早。妙覚無 為に至るべき。妙法蓮華経の功徳。不可 思議なるかな妙なるかな。いよ/\仏 果を。授け給へ。地「妙なる御法の花の 縁。深きまよひも忽ちに。変成男子われ なりと。正覚の跡を追ひ。竜女にいかで 劣らん。上歌「か程妙なる御事を。知らで 過ぎにしいにしへの。身を知れば先だた ぬ。悔の八千たび悲しきは。流るゝ喜の 汗涙。身の毛もよだちてさてもわれ。か かる御法に逢ふ事よと。上人の御前に涕 泣するぞ哀なる。クリ「げにや恩愛愛執の 涙は四大海より深し。聞法随喜の其為に は。一滴もおとすことなし。シテサシ「ありが たや衆罪如霜露恵日の光に。消えて即身 成仏たり。地「かの調達が五逆の因に。沈

みはてにし阿鼻の苦。終に法義の台に 変ず。シテ「況や受持し読誦せんをや。 地「たゞ一時も結縁せば。それこそ即ち。 仏心なれ。クセ「帰命妙法蓮華経。一部八 巻四七品。文々こと%\く神力を示しの べ給ふ。濁乱の衆生なれば。此経はたも ちがたし。暫くもたもつ者は。我則歓喜 して。諸仏もしかなりと一乗の。妙文な るものを。深着虚妄法。堅受不可捨ぞ悲 しき。シテ「始め華厳の御法より。地「般若 に及ぶ四十余年。未顕真実の方便成仏の まことあらはれて妙法蓮華経ぞかし。正 直捨方便無上の道にいたるべし。げにあ りがたや此経に。値ふ事難き優曇華の。 花待ちえたり嬉しの今の機縁や。 シテ「おもしろや。妙なる法の華の袖。地「夕 日や連れて。めぐるらん。序ノ舞「。シテ「報謝 の舞の袖の上に。地「紫雲たなびき光さ し。千草にすだく虫の音までも。妙法蓮

華の。となへかな。地上歌「げにありがたき法 の道。末暗からぬ燈の。永き闇路を照 らしつゝ。三つの絆もこと%\く。得脱 成仏の御法なり。げにありがたや頼もし や。シテ「御法の御声も時過ぎて。地「御法の

御声も時過ぎて。すでに此日も入相の。 鐘響き月出でて。げにも妙なる法の場。 身延の山の風の音。水の御声もおのづか ら諸法実相と響きつゝ。草木国土皆成仏 の霊地なりけり成仏の霊地なりけり。