峯雄 里の男 花の精

ワキ次第「色香もさぞな深草の/\。野辺の 桜を尋ねん。ワキ詞「これは旧院に仕へ申 しゝ。峯雄がなれる果にて候。誠や良峯

も御別を悲しみ。比叡山に頓世と聞き。 一人に限らぬ思の色深草山に分け入り て。古院の常に叡覧ありし。花をもせめて <161a> 眺めばやと思ひ候。下歌「都出づれば日も 既に。竹田の里はこれやらん。上歌「一夜 伏見の夢にだに/\。思ひ絶えにし別路 の末こそ知らね深草の花は昔や慕ふら ん/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。深草に着きて候。 我この陵に来て見れば。人跡絶えたる木 の下は。なほ深草の花の色。誰と咎むる 気色もなし。詞「何となく思ひ連ねて候。 深草の野辺の桜し心あらば。この春ばか り墨染に咲け。詞「この歌を短冊に写し。 枝につけて帰らばやと思ひ候。 シテ詞「なう/\あれなる御僧に申すべき 事の候。ワキ「此方の事にて候ふか何事に て候ふぞ。シテ「今の詠歌の有難さに。こ れまで現れ参りたり。ワキ「不思議やな花 を眺むる友かと見ればさはなくて。今の 詠歌の有難きとは。いかなる人にてまし ますぞ。シテ詞「この花なくはいかにして。

かゝる詠歌のましますべき。唯今手向の 言の葉にも。深草の野辺の桜し心あら ば。此春ばかり墨染に。地「咲けとは今は 恨めしや。/\。浮世の春のあだ桜。風 吹かぬ間もあるべきか。あぢきなの習や な。我も浮世を捨衣。君がためなる薫物 の。沈香ながら切髪の。ながらへはてぬ 世の中に。様かへてたび給へ我が様かへ てたび給へ。ワキ詞「さて何故の御発心にて 候ふぞ。シテ「これは御詠歌故候ふよ。 ワキ「そも詠歌故とは候。シテ「唯今の御 詠歌に。此春ばかりと遊ばしたる。此春 ばかりを引きのけて。此春よりはと詠じ 給はゞ。なほ行末も久方の。尽きぬ逢瀬 の言葉を添へて。地「花はこれまで青柳 の。暇申してさらばとて。立つかと見れ ば薄霞。木の間の月の影暗く花曇して失 せにけり花曇して失せにけり。中入間「。 ワキ詞「さては此花の精現れて。我に詞を

かはしけるぞや。いざや成道なすべし と。説くや御法の言の葉は。/\。深草 野辺の草衣。かたしく袖もうば玉の墨の 衣の旅寝かな墨の衣の旅寝かな。 後シテ一声「あら有難の御経やな。/\。クリ「草 木国土悉皆成仏。地「実に頼もしやこの文 は。中陰経の妙文。シテ「尊や我こそ草 木国土に色香を見せて花の名の。地「深草 野辺の墨染桜。これ見給へや。御僧よ。 シテサシ「それ桜は諸木にすぐれ。水を生ず る徳あり。地「これに依つて火難の恐をな す事なし。されば帝都を花洛と号し。陽 花殿月花門。左近の桜に至るまで禁中に 移し置かれたり。シテ「主上此木に向はせ 給ふ。地「これに依つて玉簾に。木向とい ふ紋を。現すなり。クセ「かほどめでたき 花の徳。誰かは仰がざるべき。中にもこ の桜は。旧院の御愛木。花の新に開けし 日は。初陽潤ふ御顔も歓ばせおはしまし

鳥の老いて帰る時。薄暮くもれる御気色。 無常の嵐吹き来り。花より先に散り給ふ。 心なき草木も。歎の色に出でざらん。此 春ばかり墨染に咲けとの詠は恥かしや。 シテ「皆人は。花の衣になりぬなり。地「苔 の袂やせめてなど。かわかざらめや雨と 降り。嵐にだにも誘はれて日数をめぐる あだ桜。うき世の春の隠家と。墨染衣衣 更着の。仏の縁を受けつぎて。草木も成

仏の。御法ぞ嬉しかりける。深草の。舞 シテ「深草の野辺の桜し。心あらば。地「此 春より墨染に咲け。/\/\。シテ「花の 袂も風吹かぬほどぞ。地「雨にも誘はれ。 シテ「露にもしをれ。地「契少なき花衣。墨 染桜こずゑに残る霞も雲も明けゆく空に。 霞も雲も明けゆく空に松風ばかりや音す らん。