里の女 芭蕉の精

ワキ詞「これは唐土楚国の傍。小水と申す 所に山居する僧にて候。さても我法華持 経の身なれば。日夜朝暮彼の御経を読み 奉り候。殊更今は秋の半。月の夕すがら 怠る事なし。こゝに不思議なる事の候。 この山中に我ならで。又住む人もなく候 に。夜な/\読経の折節。庵室のあた りに人の音なひ聞え候。今夜も来りて候 はゞ。如何なる者ぞと名を尋ねばやとお もひ候。サシ「既に夕陽西にうつり。山峡 の陰冷ましくして。鳥の声幽に物凄き。 歌「夕の空もほの%\と。/\。月にな り行く山陰の。寂莫とある柴の戸に。此 御経を。読誦する此御経を読誦する。 シテ次第「芭蕉に落ちて松の声。/\。あだ にや風の破るらん。サシ「風破窓を射て 灯きえ易く。月疎屋を穿ちて夢なり難 き。秋の夜すがら所から。物すさましき 山陰に。住むとも誰か白露の。ふり行く

末ぞ哀なる。下歌「あはれ馴るゝも山賊の 友こそ。岩木なりけれ。上歌「見ぬ色の。 深きや法の花心。/\。染めずはいかゞ 徒に。其唐衣の 錦にも衣の珠はよ も掛けじ。草の袂 も露涙移るも過ぐ る年月は。廻り廻 れどうたかたの哀 れ昔の秋もなしあ はれ昔の秋もなし。 ワキ詞「さても我読 誦の声怠らず。夢 現とも分からざる に。女人の月に見 え給ふは。如何な る人にてましますぞ。シテ「これは此あた りに住む者なるが。さも逢ひ難き御法を 得。花を捧げ礼をなし。結縁をなすばか

りなり。とても姿を見え参らすれば。何 をか今は憚の。言の葉草の庵の内を。 露の間なりと法の為は。結縁に貸させ給 へよと。ワキ詞「実に/\法の結縁は。誠に 妙なる御事なれどもさりながら。なべて ならざる女人の御身に。いかで御宿を参

らすべき。シテ詞「其御心得はさる事なれど も。よそ人ならず我もまた。住家はこゝ ぞ小水の。ワキ「同じ流を汲むとだに。 知らぬ他生の縁による。シテ「一樹の陰の。 ワキ「庵の内は。地歌「惜まじな。月も仮寝 の宿。/\。軒も垣ほも古寺の。愁は。崖寺 のふるに破れ。魂は山行の。深きに痛 ましむ月の影も凄ましや。誰かいひし。 蘭省の花の時。錦帳の下とは。廬山の雨 の夜草庵の中ぞ思はるゝ。 ワキ詞「余りに御志深ければ。御経読誦 の程内へ御入り候へ。シテ「さらば内へ参 り候ふべし。あら有難や此御経を聴聞 申せば。我等如きの女人。非情草木の類 までも頼もしうこそ候へ。ワキ「実によく 御聴聞候ふものかな。たゞ一念随喜の信 心なれば。一切の非情草木の類までも。 何の疑の候ふべき。シテ「さては殊更有 難や。さて/\草木成仏の。謂晴をなほも

示し給へ。ワキ「薬草喩品現れて。草木国 土有情非情も。皆これ諸法実相の。シテ「峰 の嵐や。ワキ「谷の水音。二人「仏事をなす や寺井の底の。心も澄めるをりからに。 地歌「灯を背けて向ふ月の下。/\。共 に憐む深き夜の。心を知るも法の人の。教 のまゝなる心こそ。思の家ながら。火宅 を出づる道なれや。されば柳は緑。花 は紅と知る事も。唯其まゝの色香の草木 も。成仏の国土ぞ成仏の国土なるべし。 ロンギ地「不思議やさても愚なる。女人と 見るにかくばかり。法の理白糸の解く ばかりなる心かな。シテ「なか/\に。何 疑か有明の。末に闇路をはるけずは。 今逢ひ難き法を得る身とはいかゞ思は ん。地「実に逢ひ難き法に逢ひ。受け難き 身の人界を。シテ「受くる身ぞとやおほす らん。地「恥かしや帰るさの。道さやかに も照る月の。影はさながら庭の面の雪の

中の芭蕉の。いつはれる姿の真を見えば 如何ならんと。思へば鐘の声。諸行無常 となりにけり/\。中入間「。 ワキ詞「さては雪の中の芭蕉の。偽れる姿 と聞こえしは。疑もなき芭蕉の女と。現 れけるこそ不思議なれ。歌待謡「たゞこれ法 の奇特ぞと。/\。思へばいとゞ夜もす がら。月も妙なる法の場。風の芭蕉や。 つたふらん風の芭蕉や伝ふらん。 後シテ一声「あら物すごの庭の面やな。/\。 有難や妙なる法の教には。逢ふ事まれな る優曇華の。花待ち得たる芭蕉葉の。御 法の雨も豊かなる。露の恵を受くる身の。 人衣の姿。御覧ぜよ。かばかりは。うつ り来ぬれど花もなき。地「芭蕉の露の。旧 りまさる。シテ「庭のもせ山陰のみぞ。 ワキ「寝られねば枕ともなき松が根の。 現れ出づる姿を見れば。ありつる女人の 顔ばせなり。さもあれ御身はいかなる人

ぞ。シテ詞「いや人とは恥かしや。誠は我は 非情の精。芭蕉の女と現れたり。ワキ「そ もや芭蕉の女ぞとは。何の縁にかか かる女体の。身をば受けさせ給ふらん。 シテ詞「その御不審は御あやまり。何か定は 荒金の。ワキ「土も草木も天より下る。 シテ「雨露の恵を受けながら。ワキ「我とは 知らぬ有情非情も。シテ「おのづからなる 姿となりて。ワキ「さも愚かなる。シテ「女 とて。地歌「さなきだに。あだなるに芭蕉 の。女の衣は薄色の。花染ならぬに袖の。 ほころびも恥かしや。 地クリ「それ非情草木といつぱ誠は無相真 如の体。一塵法界の心地の上に。雨露霜 雪の形を見ず。サシシテ「然るに一枝の花を捧 げ。地「御法の色をあらはすや。一花開け て四万の春。長閑けき空の日影を得て揚 梅桃李数々の。シテ「色香に染める。心ま で。地「諸法実相。隔もなし。クセ「水に

近き楼台は。まづ月を得るなり陽に向へ る花木は又。春に逢ふ事易きなる。其理 も様々の。実に目の前に面白やな。春過 ぎ夏たけ秋来る風の音信は。庭の荻原先 そよぎそよかゝる秋と知らすなり。身は 古寺の軒の草。忍とすれど古も。花 は嵐の音にのみ。芭蕉葉の。もろくも落 つる露の身は。置き所なき虫の音の。蓬 がもとの心の。秋とてもなどか変らん。 シテ「よしや思へば定なき。地「世は芭蕉 葉の夢の中に。牡鹿の鳴く音は聞きなが ら。驚きあへぬ人心。思ひいるさの山は あれど。唯月ひとり伴なひ馴ぬる秋の

風の音。起き臥し茂き小笹原。しのに物 思ひ立ち舞ふ袖。暫しいざやかへさん。 シテ「今宵は月も。白妙の。地「氷の衣。霜 の袴。序ノ舞「。シテワカ「霜の経。露の緯こそ。弱 からし。地「草の。袂も。シテ「久方の。地「久 方の。天つ少女の羽衣なれや。シテ「これ も芭蕉の羽袖をかへし。地「かへす袂も芭 蕉の扇の。風茫々と物すごき古寺の。庭 の浅茅生。女郎花刈萓。面影うつろふ露 の間に。山おろし松の風。吹き払ひ/\。 花も千草もちり%\。に。花も千草もち り%\になれば。芭蕉は破れて残りけ り。