旅僧 従僧 里の女 采女の霊

ワキ詞「是は諸国一見の僧にて候。我此程 は都に候ひて。洛陽の寺社残りなく拝み 廻りて候。又これより南都に参らばやと 思ひ候。サシ「頃は弥生の十日余り。花の都 を旅立ちて。まだ夜をこめて東雲の。 道行三人「影ともに。我も都を下り月。/\。 残る朝の朝霞。深草山の末つゞく。木幡 の関を今朝越えて。宇治の中宿井出の里。 過ぐれば。これぞ奈良坂や。春日の里に 着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。春日の里に着きて 候。心静かに社参申さばやと思ひ候。 シテ次第「宮路正しき春日の/\寺にもい ざや参らん。サシ「更闌け夜静かにし て。四所明神の宝前に。耿々たる灯も。

世を背けたる影かとて。共に憐む深夜の 月。朧々と杉の木の間を洩りくれば。神 の御心にも。如く物なくや思すらん。 下歌「月に散る花の陰行く宮めぐり。 上歌「運ぶ歩の数よりも。/\。積もる桜の 雪の庭。又色添へて紫の。花を垂れたる 藤の門。明くるを春の。景色かな明くる を春の景色かな。

ワキ詞「如何に是なる女性に尋ね申すべき 事の候。シテ詞「此方の事にて候ふか何事 にて候ふぞ。ワキ「見申せばこれ程茂りた る森林に。重ねて木を植え給ふ事不審に こそ候へ。シテさては当社始めてご参詣 の人にて御入り候ふか。ワキ「さん候始め てこの処に参りて候。当社の謂詳しく御 物語り候へ。シテ詞「そも/\当社と申す は。神護景雲二年に。河内の国平岡より。 この春日山本宮の峰に影向ならせ給ふ。 さればこの山。もとは端山の陰浅く。木陰 一つもなかりしを。陰頼まんと藤原や。氏 人よりて植えし木の。もとより恵深き故。 程なくかやうに太山となる。然れば当社 の御誓にも。人の参詣はうれしけれども。 木葉の一葉も裳裾に着きてや去りぬべ きと。惜しみ給ふも何故ぞ。人の煩茂 き木の。陰深けれと今も皆。諸願成就 を植え置くなり。されば慈悲万行の日の

影は。三笠の山に長閑にて。五重唯識の 月の光は。春日の里に隈もなし。地歌「陰 頼みおはしませ。唯かりそめに植うると も。草木国土成仏の。神木と思し召しあ だなにな思ひたまひそ。上歌「あらかねのそ の始め。/\。治まる国は久方の。あめ はゝこぎの緑より。花開け香残りて。仏 法流布の種久し。昔は霊鷲山にして。妙 法華経を説き給ふ。今は衆生を度せんと て大明神と現れこの山に住み給へば。鷲 の高嶺とも。三笠の山を御覧ぜよ。さて 菩提樹の木陰とも。盛りなる藤咲きて松に も花を春日山。長閑けき陰は霊山の浄土 の春に。劣らめや浄土の春に劣らめや。 シテ詞「如何に申し候。猿沢の池とて隠れ なき名地の候ふを御覧ぜられて候ふか。 ワキ詞「承り及びたる名地にて候御教へ候 へ。シテ「此方へ御出で候へ。これこそ猿 沢の池にて候へ。又思ふ子細の候へば。

この池の辺にて御経を読み仏事をなして 賜り候へ。ワキ「やすき間の事仏事をば なしと申すべし。さて誰と志して廻向申し 候ふべき。シテ「これは昔采女と申しゝ 人。この池に身を投げ空しくなりしな り。されば天の帝の御歌に。吾妹子が寝 ぐたれ髪の猿沢の。詞「池の玉藻と見るぞ 悲しきと。よめる歌の心をば。知ろし召 され候はずや。ワキ「実に/\此歌は承り 及びたるやうに候。委しく御物語り候へ。 シテ語「昔天の帝の御時に。一人の采女有り しが。采女とは君に仕へし上童なり。始め は叡慮浅からざりしが。程なく御心変り しを。及ばず乍ら君を恨み参らせて。此池 に身を投げ空しくなりしなり。ワキ「実に 実に我も聞き及びしは。帝あはれと思し 召し。この猿沢に御幸なつて。シテ詞「采女 が死骸を叡覧あれば。ワキ「さしもさば かり美しかりし。シテ「翡翠のかんざし嬋娟

の鬢。ワキ「桂の黛。シテ「丹花の唇。ワキ「柔 和の姿引きかへて。シテワキ二人「池の藻屑に乱 れ浮くを。君もあはれと思い召して。 地歌「わぎもこが。寝ぐたれ髪を猿沢の /\。池の玉藻と。見るぞ悲しきと。叡 慮に懸けし御情。かたじけなやな下とし て。君を恨みしはかなさは。たとへば及 びなき水の月取る猿沢の。生ける身と思 すかや我は采女の幽霊とて。池水に入り にけり池水の。底に入りにけり。中入間「。 ワキ三人歌待謡「池の波。夜の汀に座をなして。 /\。仮に見えつる幻の。采女の衣の色 色に。弔ふ法ぞまことなる/\。 後シテ一声「有難や妙なる法を得るなるも。心 の水と聞くものを。さわがしくとも教へ あらば。浮かぶ心の猿沢の。池の蓮の台に 坐せん。よく/\弔ひ給へとよ。ワキ「不 思議やな池の汀に現れ給ふは。采女と聞 きつる人やらん。シテ詞「恥かしながら古

の。采女が姿を現すなり。仏果を得し めおはしませ。ワキ「もとよりも人々同じ 仏性なり。なに疑も波の上。シテ「水の 底なる鱗や。ワキ「及至草木国土まで。 シテ「悉皆成仏。ワキ「疑なし。地「まし てや。人間に於てをや。竜女が如く我も はや。変成男子なり采女とな思ひ給ひ そ。しかも所は補陀洛の。南の岸にいた りたり。これぞ南方無垢世界生れん事 も。頼もしや生まれけん事も頼もしや。 地クリ「実にや古に奈良の都の代々を経 て。神と君との道すぐに国家を守る誓と かや。シテサシ「しかれば君に仕人。その品 品の多き中に。地「わきて采女の花衣の。 裏紫の心を砕き。君辺に仕へ奉る。 シテ「されば世上にその名を広め。地「情 内にこもり言葉外に顕るゝためし。世 以て類多かりけり。クセ「葛城の王。勅 に従ひ陸奥の。忍ぶもぢずり誰も皆。こ

ともおろそかなりとて設けなどしたりけ れど。なほしもなどやらん王の心解け ざりしに。采女なりける女の土器取りし 言の葉の露の情に心解け叡感以て甚し。 さらば浅香山。影さへ見ゆる山の井の。 浅くは人を思ふかの。心の花開け。風も をさまり雲静かに。安全をなすとかや。 シテ「然れば采女の戯の。地「色音に移 る花鳥の。とぶさに及ぶ雲の袖。影も 廻るや杯の。御遊の御酒の折々も。采女 の衣の色添へて。大宮人の小忌衣。桜を かざす朝より。今日も呉織声の綾をなす 舞歌の曲。拍子を揃へ。袂を翻へして。 遊楽快然たる采女の衣ぞ妙なる。取り分 き忘れめや曲水の宴の有りし時。御土器 度々廻り。有明の月更けて。山時鳥。誘

ひ顔なるに叡慮を受けて遊楽の。月に鳴 け。序の舞「。 シテワカ「月に鳴け。同じ雲井の時鳥。地「天 つ空音の。万代までに。シテ「万代と。限 らじものを。天衣。無づとも尽きぬ。巌 ならなん。松の葉の。地「松の葉の。散り 失せずして。正木のかづら長く伝はり。 鳥の跡絶えず。天地おだやかに。国土安 穏に。四海波。静かなり。ジテ「猿沢の池 の面。地「猿沢の池の面に。水滔々として 波又。悠々たりとかや。石根に雲起つて 雨はそうようを打つなり。遊楽の夜すが らこれ。采女の、戯と思すなよ。讃仏 乗の。因縁なる物を。よく弔はせ給へや とて又波に。入りにけり又波の底に入り にけり。