旅僧 里の女 紀有常の女井筒姫

ワキ詞「是は・諸国一見{しょこくいっけん}の僧にて候。我この 程は・南都七堂{なんとしちだう}に参りて候。又これより初

瀬に参らばやと思ひ候。これなる寺を人 に尋ねて候へば。・在原寺{ありはらでら}とかや申し候ふ

程に。立ちより・一見{いっけん}せばやと思ひ候。さ ては此・在原寺{ありはらでら}は。いにしへ・業平{なりひら}・紀{き}の・有常{ありつね} の・息女{そくじょ}。・夫婦{ふうふ}住み給ひし・石上{いそのかみ}なるべし。 風ふけば・沖{おき}つ・白浪{しらなみ}たつ・田山{たやま}と・詠{えい}じけん も。・此処{このところ}にての事なるべし。下歌「昔・語{がたり}の 跡とへば。その・業平{なりひら}の友とせし。・紀{き}の・有常{ありつね} の常なき世。・妹背{いもせ}をかけて・弔{とむ}らはん /\。 シテ次第「・暁{あかつき}ごとの・閼伽{あか}の水。月もこ ころ澄ますらん。サシ「さなきだに物の ・淋{さみ}しき秋の夜の。・人目{ひとめ}まる・古寺{ふるてら}の。 ・庭{には}の松風更け過ぎて。月も・傾{かたむ}く・軒端{のきば}の 草。・忘{わす}れて過ぎし・古{いにしへ}を。忍ぶ・顔{がほ}にてい つまでか待つ事なくてながらへん。げに ・何事{なにごと}も。思ひ出の。人には残る世の中か な。下歌「唯いつとなく・一筋{ひとすぢ}に頼む・仏{ほとけ}の・御手{みて} の・糸{いと}・導{みちび}きたまへ・法{のり}の声。上歌「・迷{まよひ}をも。 照らさせ給ふ・御誓{おんちかひ}。/\。げにもと見え て有明の。ゆくへは西の山なれど。なが

めは・四方{よも}の秋の空。松の声のみ聞ゆれど も。・嵐{あらし}はいづくとも。・定{さだめ}なき世の・夢心{ゆめごころ}。 何の音にか・覚{さ}めてまし。/\。 ワキ詞「我この寺に・休{やす}らひ。心を澄ますを りふし。いとなま めける・女性{によしやう}。・庭{には}の ・板井{いたい}をむすび上げ ・花水{はなみづ}とし。これな る・塚{つか}に・回向{えかう}の・気色{けしき} 見え給ふは。いか なる人にてましま すぞ。シテ詞「是は此 あたりのに住む者な り。この寺の・本願{ほんぐわん} ・在原{ありはら}の・業平{なりひら}は。世 に名を・留{と}めし人なり。されば其跡しる しもこれなる・塚{つか}の・陰{かけ}やらん。・妾{わらは}も・委{くは}しく は知らず候へども。・花水{はなみづ}を・手向{たむ}け・御跡{おんあと}を ・弔{とぶら}ひ参らせ候。ワキ「げに/\・業平{なりひら}の・御事{おんこと}

は。世に名を・留{と}めし人なりさりながら。 今は・遥{はるか}に遠き世の。・昔語{むかしがたり}の跡なるを。し かも・女性{によしやう}の・御身{おんみ}として。かやうに・弔{とぶら}ひ給 ふ事。その・在原{ありはら}の・業平{なりひら}に。いかさま故あ る・御身{おんみ}やらん。シテ「故ある身かと問はせ 給ふ。その・業平{なりひら}はその時だにも。・昔男{むかしをとこ} といはれし身の。ましてや今は遠き世に。 故もゆかりもあるべからず。ワキ「もつと

も・仰{おほせ}はさる事なれども。こゝは昔の・旧跡{きょうせき} にて。シテ「・主{ぬし}こそ遠く・業平{なりひら}の。ワキ「あと は残りてさすがにいまだ。シテ「聞えは・朽{く} ちぬ・世語{よがたり}を。ワキ「語れば今も。シテ「・昔男{むかしをとこ}の 。地歌「名ばかりは。・在原寺{ありはらでら}の・跡旧{あとふ}りて。/\。 松も・老{お}いたる・塚{つか}の草。これこそそれよ・亡{な} き跡の。・一村{ひとむら}ずすきの・穂{ほ}に出づるはいつ の・名残{なごり}なるらん。・草{くさ}・茫々{ばう/\}として・露{つゆ}・深々{しん/\}と ・古塚{ふるつか}の。・真{まこと}なるかな・古{いにしへ}の。跡なつかし き・景色{けしき}かな/\。ワキ詞「なほ/\・業平{なりひら}の・御事{おんこと} ・委{くは}しく・御物語{おんものがた}り候へ。地クリ「昔・在原{ありはら}の ・中将{ちうじやう}。・年経{としへ}てこゝにいその・上{かみ}。ふりにし ・里{さと}も花の春。月の秋とて。住み給ひしに。 シテサシ「其頃は・紀{き}の・有常{ありつね}が・娘{むすめ}と・契{ちぎ}り。・妹背{いもせ} の心・浅{あさ}からざりしに。地「又・河内{かはち}の国・高安{たかやす} の・里{さと}に。知る人ありて・二道{ふたみち}に。忍びて通 ひ給ひしに。シテ「風ふけば・沖{おき}つ・白波{しらなみ}・立田山{たつたやま}。 地「・夜半{よは}には君がひとり行くらんとお ぼつか波の・夜{よる}の道。ゆくへを思ふ・心{こころ}・遂{と}げ

てよその・契り{ちぎり}はかれ%\なり。シテ「げに・情{なさけ} ・知{し}る。うたかたの。地「あはれを述べしも ・理{ことわり}なり。クセ「昔この国に。住む人の有 りけるが。・宿{やど}をならべて・門{かど}の・前{まへ}。・井筒{ゐづつ}に よりてうなゐ子の。・友達{ともだち}かたらひて。・互{たがひ} に・影{かげ}を・水鏡{みずかゞみ}。・面{おもて}ならべ袖を懸け。心の 水も・底{そこ}ひなく。うつる・月日{つきひ}も・重{かさ}なりて。お となしく・恥{は}ぢがはしく。たがひに今はな りにけり。・其後{そののち}かのまめ男。言葉の露の・玉章{たまづさ} の。心の花も色そひて。シテ「・筒井筒{つゝゐづつ}。 ・井筒{ゐづつ}に・懸{か}けしまろが・丈{たけ}。地「・生{お}ひしにけらし な。・妹{いも}・見{み}ざる間にと・詠{よ}みて・贈{おく}りける程 に。その時・女{をんな}もくらべこし・振分髪{ふりわけがみ}も・肩{かた}・過{す} ぎぬ。君ならずして。・誰{たれ}かあぐべきと・互{たがひ} に・詠{よ}みし故なれや。・筒井筒{つゝゐづつ}の女とも。聞 えしは・有常{ありつね}が。娘の・旧{ふる}き名なるべし。 ロンギ地「げにや・旧{ふ}りにし・物語{ものがたり}。聞けば・妙{たへ} なる有様の。あやしや名のりおはしませ。 シテ「・誠{まこと}は我は・恋衣{こひごろも}。・紀{き}の・有常{ありつね}が娘と

も。いさ・白波{しらなみ}の・立田山{たつたやま}・夜半{よは}にまぎれて来 りたり。地「ふしぎやさては・立田山{たつたやま}。色に ぞ出づるもみぢ・葉{は}の。シテ「・紀{き}の・有常{ありつね}が娘 とも。地「又は・井筒{ゐづつ}の・女{をんな}とも。シテ「恥かし ながら我なりと。地「いふや・注連縄{しめなは}の・長{なが}き ・夜{よ}を。・契{ちぎ}りし年は・筒井筒{つゝゐづつ}・井筒{いづつ}の陰に隠れ けり・井筒{ゐづつ}の陰にかくれけり。中入間「。 ワキ歌待謡「更けゆくや。・在原寺{ありはらでら}の・夜{よる}の・月{つき}。 /\。昔を返す・衣手{ころもで}に。・夢{ゆめ}待ちそへて・仮枕{かりまくら}。 ・苔{こけ}の・莚{むしろ}に。・臥{ふ}しにけり・苔{こけ}のむしろに ・臥{ふ}しにけり。 後シテ一声「あだなりと名にこそ立てれ・桜花{さくらばな}。 ・年{とし}に・稀{まれ}なる人も待ちけり。かやうに・詠{よ}み しも我なれば。・人待{ひとま}つ・女{をんな}ともいはれしな り。・我{われ}・筒井筒{つゝゐづつ}の昔より。・真弓槻弓{まゆみつきゆみ}・年{とし}を経 て。今は亡き世に・業平{なりひら}の。・形見{かたみ}の・直衣{なほし}。身 に・触{ふ}れて。恥かしや。・昔男{むかしをとこ}に・移舞{うつりまひ}。地「雪 をめぐらす。・花{はな}の・袖{そで}。序ノ舞「。シテワカ[こゝに来 て。昔ぞかへす。・在原{ありはら}の。地「・寺井{てらゐ}に・澄{す}める。

月ぞさやけき。月ぞさやけき。シテ「月や あらぬ。春や昔と・詠{なが}めしも。いつの頃ぞ や。・筒井筒{つゝゐづつ}。地「つゝゐづつ。・井筒{ゐづつ}にかけ し。シテ「まろがたけ。地「・生{お}ひしにけらし な。シテ「・老{お}いにけるぞや。地「さながら・見{み}み えし・昔男{むかしをとこ}の。・冠直衣{かぶりなほし}は。女とも見え

ず。男なりけり。・業平{なりひら}の・面影{おもかげ}。シテ「見れ ばなつかしや。地「我ながらなつかしや。 ・亡婦魄霊{ばうふはくれい}に・姿{すがた}はしぼめる花の。色なうて ・匂{にほひ}。残りて・在原{ありはら}の寺の鐘もほの%\と。 明くれば・古寺{ふるてら}の松風や・芭蕉葉{ばせうは}の夢も。破 れて覚めにけり夢は破れ・明{あ}けにけり。