里女

ワキ次第「行けば深山も・麻裳{あさも}よい。/\。木曽路 の旅に出でうよ。ワキ詞「これは木曽の山家 より出でたる僧にて候。われ未だ都を 見ず候ふ程に。此度思ひ立ち都に上り候。 道行「旅衣。木曽の・御坂{みさか}を遥々と。/\。思 ひ立つ日も美濃尾張。定めぬ宿の暮ごと に。夜を重ねつゝ日を添へて。行けば程 なく近江路や・鳰{にほ}の海とは。これかとよ。 /\。詞「急ぎ候ふ程に。江州粟津の原と やらんに着きて候。此所に暫く休らはば やと思ひ候。シテサシ会釈「面白や鳰の浦波静か なる。粟津の原の松蔭に。神を・斎{いは}ふやまつ りごと。げに神感も頼もしや。ワキ詞「不思 議やなこれなる・女性{によしやう}の神に参り。涙を流 し給ふ事。返す/\も不審にこそ候へ。

シテ「御僧はみづからが事を仰せ候ふか。 ワキ「さん候神に参り涙を流し給ふ事を 不審申して候。シテ「おろかと不審し給ふ や。伝へ聞く行教和尚は。宇佐八幡に 詣で給ひ一首の歌に曰く。何事のおはし ますとは知らねども。詞「忝さに涙こぼ るゝと。かやうに詠じ給ひしかば。神も 哀とや思し召されけん。・御衣{おんころも}の袂に・御影{みかげ} をうつし。それより都男山に誓を示し 給ひ。国土安全を守り給ふ。ワキ「やさしやな女性なれ どもこの里の。都に近き住居とて。名に しおひたるやさしさよ。シテ詞「さて/\御僧 の住み給ふ。在所はいづくの国やらん。 ワキ「これは信濃の国木曽の山家の者にて

候。シテ「木曽の山家の人ならば。粟津が 原の神の御名を。問はずは如何で知り給 ふべき。これこそ御身の住み給ふ。木曽 義仲の御在所。同じく神と斎はれ給ふ。 拝み給へや旅人よ。ワキ「不思議やさては 義仲の。神とあらはれこの処に。ゐまし 給ふは有難さよと。神前に向ひ手を合は せ。地上歌「古の。これこそ君よ名は今も。 /\。有明月の義仲の。仏と現じ神とな り。世を守り給へる誓ぞ。有難かりけ る。旅人も一樹の蔭。他生の縁とおぼし めし。この松が根に旅居し夜もすがら経 を読誦して。・五衰{ごすゐ}を。慰め給ふべし。有 難き・値遇{ちぐう}かなげに有難き値遇かな。さる ほどに暮れて行く日も山の端に。入相の 鐘の音の。・浦回{うらわ}の波に響きつゝ。いづれ も物凄き折節に。われも亡者も来りたり。 その名をいづれとも。知らずはこの里人 に。問はせ給へと夕暮の草のはつかに入

りにけり/\。中入間「。 ワキ上歌待謡「露をかたしく草枕。/\。日も暮 れ夜にもなりしかば。粟津が原のあはれ 世の。・亡影{なきかげ}いざや。弔はん/\。後シテ一声「落花 空しきを知る。流水心無うしておのづか ら。すめる心はたらちねの。地「罪も報 も因果の・苦{くるしみ}。今は浮まん御法の功力に 草木国土も成仏なれば。況や生ある・直道{ぢきだう}の 弔。かれこれ何れも頼もしや。頼もしや あら有難や。 ワキ「不思議やな粟津が原の草枕を。見れ ば有りつる女性なるが。甲胄を帯する不 思議さよ。シテ詞「なか/\に巴といひし 女武者。女とて御最後に。召し具せざりし そのうらみ。ワキ「執心残つて今までも。 シテ「・君辺{くんべん}に仕へ申せども。ワキ「怨みは猶 も。シテ「荒磯海の。地「粟津の汀にて。波 の討死・末{すゑ}までも。御供申すべかりしを。 女とて御最後に。捨てられ参らせし恨め

しや。身は恩のため。・命{めい}は義による理。 誰か・白真弓取{しらまゆみとり}の身の。最後に臨んで功名 を。惜まぬ者やある。 クセ「さても義仲 の。信濃を出で させ給ひしは。 五万余騎の御勢・轡{くつばみ}をならべ攻 め上る。礪波山 や倶利伽羅志保 の合戦に於て も。分捕功名の その数。誰に面 を越され誰に劣 る振舞の。なき ・世語{よがたり}に。名をを し思ふ心かな。 シテ「されども時刻の到来。地「・運{うん}・槻弓{つきゆみ}の引 く方も。渚に寄する粟津野の。草の露霜

と消え給ふ。所はこゝぞお僧達。同所の 人なれば順縁に・弔{と}はせ給へや。ロンギ「さて 此原の合戦にて。討たれ給ひし義仲の。 最後を語りおはしませ。シテ「頃は睦月の 空なれば。地「雪はむら消に残るをたゞ

かよひぢと汀をさして。駒をしるべに落 ち給ふが。薄氷の深田に駆けこみ。弓手 も馬手も鐙は沈んでおりたゝん便もな くて。手綱にすがつて鞭を打てども。引 く方もなぎさの浜なり前後を・忘{ほう}じて控へ 給へり。こは如何に浅ましや。かゝりし 所にみづから駆けよせて見奉れば。重手 はおひ給ひぬ乗替に召させ参らせ。この 松原に御供し。はや御自害候へ。巴も供 と申せば。その時義仲の仰には。汝は女 なり。しのぶ便もあるべし。これなる ・守小袖{まもりこそで}を。木曽に届けよこの旨を。背か ば主従三世の契絶えはて。ながく不興 とのたまへば。巴はともかくも。涙にむ せぶばかりなり。 かくて御前を立ち上り。見れば・敵{かたき}の大勢 あれは巴か女武者。余すな漏らす なと。・敵手{かたきて}繁くかゝれば。今は引くとも 遁るまじ。いで・一軍{ひといくさ}嬉しやと。巴少しも

騒がすわざと敵を近くなさんと。薙刀引 きそばめ。少し怒るゝ気色なれば、敵は 得たりと。切つてかゝれば。薙刀・柄{え}長く おつ取りのべて。・四方{しほう}を払ふ・八方払{はつぱうばらひ}。 一所に当る木の葉返し。嵐も落つるや花 の・瀧波{たきなみ}枕をたゝんで戦ひければ。皆一方に。切り立てられて跡も遥に見えざりけ り。/\。 シテ「今はこれまでなりと。地「立ち帰り我 が君を。見たてまつればいたはしや。は や御自害候ひて。この松が根に伏し給ひ 御枕のほどに御小袖。肌の守を置き給ふ

を。巴泣く/\賜はりて。死骸に御暇申 しつゝ。行けども悲しや行きやらぬ。君 の名残を如何にせん。とは思へどもくれ ぐれの。御遺言の悲しさに。粟津の汀に 立ちより。上帯切り。物の具心静かに脱 ぎ置き。梨打烏帽子同じく。かしこに脱 ぎ捨て。御小袖を引きかづき。その際ま での・佩添{はきそ}への。小太刀を・衣{きぬ}に引き隠し。 処はこゝぞ近江なる。・信楽笠{しがらきがさ}を木曽の里 に。涙と巴はたゞひとり落ち行きしうし ろめたさの執心を・弔{と}ひてたび給へ/\。