旅僧 老人 源三位頼政

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。我此程 は都に候ひて。洛陽の寺社残なく拝み。廻 りて候。又これより南都に参らばやと思 ひ候。道行「天雲の。稲荷の社伏し拝み。 /\。なほ行くすゑは深草や。木幡の関 を今越えて。伏見の沢田見え渡る。水の 水上たづねきて。宇治の里にも。着きに けり宇治の里にも着きにけり。狂言シカ%\「。 ワキ詞「げにや遠国にて聞き及びにし宇治 の里。詞「山の姿川のながれ。遠の里橋の 景色。見所おほき名所かな。詞「あはれ里 人来り候へかし。 シテ詞呼掛「なう/\御僧は何事を仰せ候ふぞ。 ワキ詞「是は此所はじめて一見の者にて候。 この宇治の里に於て。名所旧跡残なく御

教へ候へ。シテ「所には住み候へども。い やしき宇治の里人なれば。名所とも旧跡 とも。いさ白波の宇治の川に。舟と橋と は有りながら。渡りかねたる世の中に。 住むばかりなる名所旧跡。何とか答へ申 すべき。ワキ詞「いや左様には承り候へど も。勧学院の雀は蒙求を囀るといへり。 処の人にてましませば御心にくうこそ候 へ。先喜撰法師が住みける庵は。いづく の程にて候ふぞ。シテ「さればこそ大事の 事を御尋ねあれ。喜撰法師が庵は。我が 庵は都の巽しかぞ住む。詞「世を宇治山と 人はいふなり。人はいふなりとこそ。主 だにも申し候へ。尉は知らず候。 ワキ詞「又あれに一村の里の見えて候ふは

槙の島候ふか。シテ「さん候槙の島とも申 し。又宇治の河島とも申すなり。ワキ「是 に見えたる小島が崎は。シテ「名に橘の 小島が崎。ワキ「向に見えたる寺は。いか さま恵心の僧都の。御法を説きし寺候ふ な。シテ「なう/\旅人。あれ御覧ぜよ。 歌「名にも似ず。月こそ出づれ朝日山。 地「月こそ出づれ朝日山。山吹の瀬に影見 えて。雪さし下す島小舟。山も川も。お ぼろおぼろとして是非をわかぬ景色か な。げにや名にしおふ。都に近き宇治の 里聞きしにまさる名所かな/\。 シテ詞「いかに申し候。此所に平等院と申 す御寺の候ふを御覧ぜられて候ふか。 ワキ詞「不知案内の事にて候ふ程に。いまだ 見ず候御をしへ候へ。シテ「此方へ御出で 候へ。これこそ平等院にて候へ。また是 なるは釣殿と申して。おもしろき所にて 候よく/\御覧候へ。ワキ「げに/\おも

しろき所にて候。またこれなる芝を見れ ば。扇の如く取り残されて候ふは。何と 申したる事にて候ふぞ。シテ「さん候此 芝について物語の候。語つて聞かせ申し 候べし。昔この処に宮軍ありしに。 源三位頼政合戦に打ち負け給ひ。この処 に扇を敷き自害し果て給ひぬ。されば名 将の古跡なればとて。扇のなりに取り残 して。今に扇の芝と申し候。ワキ「痛はし やさしも文武に名を得し人なれども。跡 は草露の道の辺となつて。行人征馬の行 くへの如し。あら痛はしや候。シテ詞「げに よく御弔ひ候ふものかな。しかも其宮軍 の月も日も今日に当りて候ふは如何に。 ワキ「何と其宮軍の月も日も今日当りた ると候ふや。シテ「かやうに申せば我な がら。よそにはあらず旅人の。草の枕の 露の世に。姿見えんと来りたり。現とな思 ひ給ひそとよ。地歌「夢の浮世の中宿の。

/\。宇治の橋守年を経て。老の波も打ち 渡す遠方人に。物申す我頼政が幽霊と名 のりもあへず。失せにけり名のりもあへ ず失せにけり。 ワキ詞「さては頼政の 幽霊かりに現れ。 我に言葉をかはし けるぞや。いざ や御跡弔はんと。 歌「思ひよるべの浪 枕。/\。汀も近 し此庭の扇の芝を 片敷きて。夢の契 を。待たうよ夢 の契を待たうよ。 後シテ一声「血は琢鹿の河となつて。紅波楯を流 し。白刃骨を砕く。世を宇治川の網代の 波。あら閻浮恋しや。伊勢武者は。皆緋 縅の鎧着て。宇治の網代に。かゝりける

かな。うたかたの。あはれはかなき世の 中に。地「蝸牛の角の。争も。シテ「はかな かりける。心かな。詞「あら尊の御事や。 なほ/\御経読み給へ。 ワキ「不思議やな 法体の身にて甲胃を帯し。御経読めと承 るは。いかさま聞きつる源三位の。その 幽霊にてましますか。シテ詞「げにや紅は

園生に植ゑても隠なし。名のらぬさき に。詞「頼政と御覧ずるこそ恥かしけれ。 たゞ/\御経読み給へ。ワキ「御心やすく 思し召せ。五十展転の功力だに。成仏ま さに疑なし。ましてやこれは直道に。 シテ「弔ひなせる法の力。ワキ「あひにあひ たり所の名も。シテ「平等院の庭の面。 ワキ「思ひ出でたり。シテ「仏在世に。地歌「仏 の説きし法の場。/\。こゝぞ平等大慧 の。功力に頼政が。仏果を得んぞありが たき。 シテ「今はなにをかつゝむべき。これは源 三位頼政。執心の波に浮き沈む。因果の 有様あらはすなり。地「抑治承の夏の頃。 よしなき御謀叛を勧め申し。名も高倉の 宮の内。雲居のよそに有明の月の都を忍 び出でて。シテ「憂き時しもに。近江路や。 地「三井寺さして落ち給ふ。クセ「さるほ どに。平家は時をめぐらさず。数万騎の

兵を。関の東に遣はすと。聞くや音羽の 山つゞく。山科の里近き。木幡の関を。 よそに見て。こゝぞ憂き世の旅心宇治の 河橋打ち渡り。大和路さして急ぎしに。 シテ「寺と宇治との間にて。地「関路の駒の 隙もなく。宮は六度まで御落馬にて煩は せ給ひけり。これは先の夜御寝ならざる 故なりとて。平等院にして。暫く御座を 構へつゝ宇治橋の中の間。引きはなし。 下は河波。上に立つも。共に白旗を靡か してよする敵を待ち居たり。 シテ詞語「さる程に源平の兵。宇治川の南北の 岸に打ちのぞみ。閧の声矢叫の音。波に たぐへておびたゝし橋の行桁をへだて て戦ふ。味方には筒井の浄妙。詞「一来法 師。敵味方の目を驚かす。かくて平家の 大勢。橋は引いたり水は高し。さすが難 所の大河なれば。詞「左右なう渡すべきや うも無かつし処に。田原の又太郎忠綱と

名のつて。詞「宇治川の先陣我なりと。名 のりもあへず三百余騎。地「くつばみを揃 へ河水に。少しもためらはず。群れゐる 群鳥の翅を並ぶる羽音もかくやと。白波 に。ざつ/\と。打ち入れて。浮きぬ沈 みぬ渡しけり。シテ「忠綱。兵を。下知し ていはく。地「水の逆巻く所をば。岩あり と知るべし。弱き馬をば下手に立てゝ。 強きに水を。防がせよ。流れん武者には 弓弭を取らせ。互に力を合はすべしと。 唯一人の。下知に依つて。さばかりの大 河なれども一騎も流れず此方の岸に。を めいてあがれば味方の勢は。我ながら踏 みもためず。半町ばかり。覚えずしさつ て。切先を揃へて。こゝを最期と戦うた り。さる程に入り乱れ。我も/\と戦へ ば。シテ「頼政が頼みつる。地「兄弟の者も 討たれけば。シテ「今は何をか期すべき と。地「唯一筋に老武者の。シテ「是までと

思ひて。地「是までと思ひて。平等院の庭 の面。是なる芝の上に。扇を打ち敷き。 鎧ぬぎ捨て座を組みて。刀を抜きながら。 さすが名を得し其身とて。シテ「埋木の。 花さく事もなかりしに。身のなるはては

あはれなりけり。地「跡弔ひ給へ御僧よ。 かりそめながらこれとても。他生の種の 縁にいま。扇の芝の草の蔭に。帰るとて 失せにけり立ち帰るとて失せにけり。