平知章(前ハ里男)

ワキ次第「春を心のしるべにて。/\。・憂{う}か らぬ旅に・出{い}でうよ。詞「これは・西国方{さいこくがた}より 出でたる僧にて候。われいまだ都を見ず 候ふ程に。唯今思ひたち・都{みやこ}・一見{いっけん}と志し候。 道行「旅衣。八重の潮路をはる%\と。 /\。猶末ありと行く波の。雲をも分く る沖つ船。われも浮世の道出でて。いづ くともなき・海際{うみぎわ}や。浦なる関に着きにけ り。/\。詞「さてもわれ鄙の国よりはる ばると。これなる磯辺に来て見れば。新

しき卒都婆を立ておきたり。亡き人の追 善と思しくて。・要文{えうもん}さま%\書記し。 ・物故{もっこ}平知章と書かれたり。・知章{ともあきら}とは平 家の御一門の・御中{おんなか}にては。誰にてかまし ますらん。あら痛はしや候。 シテ詞呼掛「なう/\御僧は何事を仰せ候ぞ。 ワキ「是は遠国より上りたる僧にて候ふ が。これなる卒都婆を見れば。物故平知章 と書かれて候。御一門の御中にて候ふや らんと痛はしく存じ。一遍の念仏を廻向

申して候。シテ「げに/\遠国の人にてま しませば。知ろしめさぬは・御理{おんことわり}。知章とは 相国の三男新中納言知盛の・御子{おんこ}にて候。 二月七日の・合戦{かせん}に。此一の谷にて討たれ させ給ひて候。されば其日も今日にあた りたれば。・縁{ゆかり}の人の立てたる卒都婆にて 候。時もこそあれ御僧の。今日しもこゝに 来り給ひ。廻向し給ふありがたさよ。一樹 の蔭一河の流。これ又他生の縁なるべし。 よく/\弔ひ給ひ候へ。ワキ「げに/\仰 のごとく。他生の縁のあればこそ。かり そめながらこゝに来て。シテ「無縁の利 益をなす事よと。ワキ「思の玉の数繰り て。シテ「弔ふ事よさなきだに。シテワキ二人「一 見卒都婆・永離三悪道{やうりさんあくだう}。・何凉造立者{がきやうざうりふしや}。必生 安楽国。物故平知章・成等正覚{じやうとうしやうがく}。地下歌「昨日 は人の上。けふはわれをも知らぬ身の。 しかも弓馬の・家人{かじん}ならば。・法{のり}にひかれつ つ。仏果に至り給へや。上歌「唯一念の功

力だに。/\三悪の罪は消えぬべし。ま して・妙{たえ}にも説く法の。道のほとりの亡き 跡を逆縁もなどかなかるべき/\。 ワキ詞「さて知盛の御最期は何とかならせ 給ひて候ふぞ。シテ詞「さん候知盛は。あ れに見えたる釣舟のほどなりし。遥の 沖の御座船に。追ひつき助かり給ひて 候。ワキ「さてあれまでは小船に召されて 候ふか。シテ「いや・馬上{ばしやう}にて候ひし。其頃 ・井上黒{いのうへぐろ}とて屈竟の名馬たりしが。二十余町 の海の面を。やす/\と泳ぎ渡り。・主{ぬし}を 助けし馬なり。されども船中に処なかり し間。乗する人もなくして。又・本{もと}の汀に 泳ぎ上り。此馬主の・別{わかれ}を慕ふかと思し くて。沖の方に向ひ・高嘶{たかいなゝき}し。・足掻{あしがき}して ぞ立つたりける。畜類も心ありけるよ と。見る人哀を催しけり。地「・越鳥南枝{ゑつてうなんし}に 巣をかけ・胡馬北風{こばほくふう}にいばえしも・旧郷{きゅうごう}を忍 ぶ故なりとか。胡馬は北風を慕ひ。此馬 <120 b> は西に行く船の。・纜{ともづな}に繋がれても。行か ばやと思ふ心なり。 ロンギ上「さる程に。日もはや暮れて須磨の 浦。海人の磯屋に・宿{やどり}して。逆縁ながら弔は ん。シテ「げにありがたやわれとても。よそ 人ならず一門の。・内外{うちと}にかよふ夕月の後 の世の闇をとひ給へ。地「そも一門の内ぞ とは。御身いかなる人やらん。シテ「今は何 をかつゝみ・井{い}の。・水隠{みがく}れて住むあはれ世 に。地「亡き跡の名は。シテ「白真弓の。地「帰 る方を見れば。須磨の里にも野山にも。行 かで汀のかたをなみ。芦辺をさしてゆく ・田鶴{たづ}の。浮きぬ沈むと見えしまゝに。・後影{うしろかげ} も失せにけりや後影も失せにけり。中入。 ワキ上歌待謡「夕波千鳥友寐して。/\。処も須 磨の浦づたひ。野山の風もさえかへり。 心も墨の衣手に。此御経を読誦する/\。 後シテ一声「あらありがたの御弔やな。われ修 羅道の苦の。隙なき中にかくばかり。

・魄霊{はくれい}にひかれて来りたり。浮むべき。波 こゝもとや須磨の浦。地「海少しある通路 の。シテ「・後{うしろ}の山風上野のあらし。地「草木 国土有情非情も。悉皆成仏の。かの岸の 海際に。浮み出でたるありがたさよ。 ワキ「不思議やなさもなまめきたる若武者 の。波に浮みて見え給ふは。いかなる人 にてましますぞ。シテ詞「誰とはなどや愚な り。御弔のありがたさに。知章これまで参 りたり。ワキ「さては平家の公達を。まのあ たりに見奉る事よと。昔にかへる浦波の。 シテ「・浮織物{うきおりもの}の直垂に。つま・匂{にほひ}の鎧着て。 ワキ「さも・華{はな}かなる・御{おん}姿。シテ「処もさぞな。 ワキ「須磨の浦に。地上歌「朧なる雁の姿や月 の影。/\。うつす絵島の島隠れ。行く船 を。惜しとぞ思ふ我が父に。別れし船影の 跡白波も懐しや。よしとても・終{つい}に我が。 憂き身を捨てゝ西海の藻屑となりし浦の 浪。重ねて・弔{と}ひてたび給へ。/\。

ワキ詞「さらば其時の有様委しく御物語り 候へ。地クリ「さても其時のありさま語るに つけて憂き名のみ。竜田の山の紅葉葉の。 くれなゐ靡く旗のあし。散り%\になる 気色かな。シテサシ「主上二位殿をはじめ奉り。 その外大臣殿父子。地「一門皆々船に取り 乗り。海上に浮むよそほひ。唯・滄波{さうは}のう ねに浮き沈む水鳥の如し。シテ「其中にも 親にて候ふ新中納言。われ知章監物太郎。 主従三騎に討ちなされ。地「御座船をうか がひ此汀にうち出でたりしに。・敵手{かたきて}しげ くかゝりし間。又ひつかへし打ちあふ程 に。知章監物太郎。主従こゝにて討死す る。シテ「その隙に知盛は。地「二十余町の 沖に見えたる。大臣殿の御船まで。馬を 泳がせ追ひついて。御船に乗りうつり。 かひなき御命助かり給ふ。クセ「知盛其時 に。おほいどのゝ御前にて。涙を流し宣 はく。武蔵の守も討たれぬ監物太郎頼賢

も。あの汀にて討たるゝを。見すてゝこ れまでまゐる事。面目もなき次第なり。 いかなれば。子は親のため。命を惜まぬ 心ぞや。いかなる親なれば。子の討たるゝ を。見捨てけん。命は惜しきものなりとて。 さめ%\と泣き給へばよその袖も濡れ にけり。おほいどのも宣はく。武蔵の守 はもとよりも。心も剛にしてよき大将と 見しぞとて。御子清宗の方を。見やりて 御涙を。流し給へば船の・中{うち}に。連れる人々 も。鎧の袖をぬらしけり。シテ「武蔵の守 知章は。地「生年二八の春なれば。清宗も 同年にて。ともに若葉の・磯馴松{そなれまつ}千代を重 ねて栄ゆくや。累葉枝を連ねつゝ。一門 かどをならべしも。今年のけふはいかな れば。処も須磨の山桜。若木は散りぬ埋 木の。浮きてたゞよふ船人となりゆく果 ぞかなしき。ロンギ上「げに痛はしき物語。 同じくは御最期を。懺悔に語り給へや。

シテ「げにや最期{さいご}の有様を慙愧懺悔にあら はし修羅道の苦患免れん。地「げに修羅道 の苦の。その一念も最期より。シテ「聞 きつるまゝの敵にて。地「すはや寄せく る。シテ「浦の波。地「団扇の旗児玉党か。 物々しと云ふまゝに。監物太郎が放つ矢 に。敵の旗さしの。首の骨のぶかに射 させて真逆さまにどうと落つれば。 シテ「主人とおぼしき武者。地「主人とおぼ しき武者の新中納言を目にかけて。駈け よせて討つ所を。親を討たせじと。知章 かけ塞がつて。むずと組んで。どうと落 ち。取つて押さへて首かき切つて。起き あがる処を又。敵の郎等落ち合ひて。知 章が首をとれば。終にこゝにて討たれつ つ。其まゝ修羅の。業に沈むを。思はざる に御僧の。とぶらひはありがたや。是ぞ真 の法の友よ。これぞまことの知章が。跡と ひてたび給へ。亡き跡を弔ひてたび給へ。