旅僧 舟人 今井四郎兼平の霊

ワキ次第「始めて旅を信濃路や。/\。木曽の 行方を尋ねん。詞「これは木曽の山家より 出でたる僧にて候。さても木曽殿は。江 州粟津が原にて果て給ひたる由承り及び

び候ふ程に。かの御跡を弔ひ申さばやと 思ひ。唯今粟津が原へと急ぎ候。道行「信 濃路や。木曽の梯名にしおふ。/\。其 跡とふや道のべの草の蔭野の仮枕。夜を

重ねつゝ日を添へて。行けばほどなく近 江路や。矢橋の浦に着きにけり/\。 シテ一セイ「世のわざの。憂きを身に積む柴舟 や。焚かぬ先より。漕がるらん。ワキ詞「な う/\其船に便船申さうなう。シテ詞「是は 山田矢橋の渡舟にてもなし。御覧候へ柴 積みたる船にて候ふ程に。便船は叶ひ候 ふまじ。ワキ「此方も柴舟と見申して候へ ども。折節渡に舟もなし。出家の事にて 候へば別の御利益に。舟を渡してたび給 へ。シテ「実にも/\出家の御身なれば。 詞「余の人にはかはり給ふべし。実に御経 にも如渡得船。ワキ「船待ち得たる旅行の 暮。シテ「かゝるをりにも近江の海の。 二人「矢橋をわたる船ならば。それは旅人 の渡舟なり。地歌「是は又。浮世を渡る柴 舟の。/\。干されぬ袖も水馴棹の。見 馴れぬ人なれど。法の人にてましませば。 船をばいかで惜むべきとく/\召され

候へとく/\召され候へ。ワキ詞「如何に船 頭殿に申すべき事の候。見え渡りたる浦 山は皆名所にてぞ候ふらん。御教へ候へ。 シテ詞「さん候皆名所にて候。御尋ね候へ 教へ申し候ふべし。ワキ「まづ向ひに当つ て大山の見えて候ふは比叡山候ふか。 シテ「さん候あれこそ比叡山にて候へ。麓 に山王二十一社。茂りたる峯は八王子。 戸津坂本の人家まで残なく見えて候。 ワキ「さてあの比叡山は。王城より艮に当 つて候ふよなう。シテ「なか/\の事それ 我が山は。王城の鬼門を守り。悪魔を払 ふのみならず。一仏乗の嶺と申すは。伝 へ聞く鷲の御山を象れり。又天台山と号 するは。震旦の四明の洞をうつせり。 詞「伝教大師桓武天皇と御心を一つにし て。延暦年中の御草創。我が立つ杣と詠 じ給ひし。根本中堂の山上まで残な く見えて候。ワキ「さて/\大宮の御在所

橋殿とやらんも。あの坂本のうちにて候 ふか。シテ「さん候麓に当つて。少し木 深き影の見えて候ふこそ。大宮の御在所 橋殿にて御入り候へ。ワキ「有難や一切衆 生悉有仏性如来と聞く時は。我等が身ま でも頼もしうこそ候へ。シテ「仰の如く仏 衆生通ずる身なれば。御僧も我も隔は あらじ。一仏乗の。ワキ「峰には遮那の梢 をならべ。シテ「麓に止観の海をたゝへ。 ワキ「又戒定恵の三学を見せ。シテ「三塔と 名づけ。ワキ「人は又。地「一念三千の。機を 顕して。三千人の衆徒を置き円融の法も 曇なき。月の横川も見えたりや。さて又 麓はさゝ波や。志賀辛崎の一つ松。七社の 神輿の御幸の梢なるべし。さゝ波の水馴 棹こがれ行く程に。遠かりし。向の浦波 の。粟津の森は近くなりてあとは遠き細 波の。昔ながらの山桜は青葉にて。面影 も夏山の移り行くや青海の。柴舟のしば

しばも。暇ぞ惜しき細波の寄せよ寄せよ 磯ぎはの。粟津に早く着きにけり/\。 ワキ歌待謡「露を片敷く草筵。/\。日も暮れ夜 にもなりしかば。粟津の原のあはれ世 の。亡きかげいざや。弔はんなきかげい ざや弔はん。 後シテ一声「白刃骨を砕く苦。眼晴を破り。紅波 楯を流す粧。簗杭に残花を乱す。一セイ「雲 水の。粟津の原の朝風に。地「鬨つくり添 ふ。声々に。シテ「修羅の巷は騒がしや。 ワキ「不思議やな粟津の原の草枕に。甲冑 を帯し見え給ふは。如何なる人にてまし ますぞ。シテ「愚と尋ね給ふものかな。御 身是まで来り給ふも。我なき跡をとはん 為の。御志にてましまさずや。兼平こ れまで参りたり。ワキ「今井の四郎兼平 は。今は此世に亡き人なり。さては夢に て有るやらん。シテ詞「いや今見る夢のみ か。現にもはや水馴棹の。舟にて見みえ

し物語。早くも忘れ給へりや。ワキ「そも や舟にて見みえしとは。矢橋の浦の渡守 の。シテ詞「其舟人こそ兼平が。現に見みえ し姿なれ。ワキ「さればこそ始より。様あ る人と見えつるが。扨は昨日の舟人は。 シテ「舟人にも非ず。ワキ「漁夫にも。シテ「あ らぬ。地歌「武士の。矢橋の浦の渡守。矢 橋の浦の渡守と。見えしは我ぞかし。同じ くは此舟を。御法の舟に引きかへて。我を 又かの岸に。渡してたばせ給へや。 地クリ「実にや有為生死の巷。来つて去る事 早し。老少もつて前後不同。夢幻泡影。 いづれならん。シテサシ「唯これ槿花一日の 栄。地「弓馬の家にすむ月の。わづかに残 る兵の。七騎となりて木曽殿は。此近江 路に下り給ふ。シテ「兼平瀬田より参りあ ひて。地「又三百余騎になりぬ。シテ「其後 合戦度々にて。又主従二騎に討ちなさる。 地「今は力なし。あの松原に落ち行きて。

御腹召され候へと。兼平すゝめ申せば。 心細くも主従二騎。粟津の松原さして落 ち給ふ。クセ「兼平申すやう。後より御敵。 大勢にて追つかけたり。防矢仕らんとて。 駒の手綱を返せば。木曽殿御諚ありける は。多くの。敵を遁れしも。汝一所にな らばやの。所存ありつる故ぞとて同じく かへし給へば。兼平又申すやう。こは口 惜しき御諚かな。さすがに木曽殿の。人 手にかゝり給はん事。末代の御恥辱。唯 御自害あるべし。今井もやがて参らんと の。兼平に諫められ。又引つ返し落ち給 ふ。さて其後に木曽殿は。心細くも唯一 騎。粟津の原のあなたなる。松原さして 落ち給ふ。シテ「頃は正月の末つ方。地「春 めきながら冴えかへり。比叡の山風の。 雲行く空もくれはとり。あやしや通路の。 すゑ白雪の薄氷。深田に馬をかけ落し。 引けども上らず打てども行かぬ望月の。

駒の頭も見えばこそこは何とならん身の 果。せん方もなくあきれはて。此まゝ自害 せばやとて。刀に。手を掛け給ひしが。さ るにても兼平が。行方如何にと遠方の跡 を見返り給へば。シテ「何処より来りけん。 地「今ぞ命は槻弓の。矢一つ来つて内兜に からりといる。痛手にてましませば。た まりもあへず馬上より。をちこちの土と なる。所はこゝぞ我よりも。主君の御跡 を。先弔ひてたび給へ。ロンギ地「実に痛は しき物語。兼平の御最期は。何とかなら せ給ひける。シテ「兼平はかくぞとも。知 らで戦ふ其隙にも。御最期の御供を。心 にかくるばかりなり。地「扨其後に思はず も。敵の方に声立てゝ。シテ「木曽殿討た れ給ひぬと。地「呼ばはる声を聞きしよ り。シテ「今は何をか期すべきと。地「思ひ 定めて兼平は。シテ「是を最期の広言と。 地「鐙ふんばり。シテ「大音上げ木曽殿の。

御内に今井の四郎。地「兼平と。名乗りか けて。大勢に。割つて入れば。もとよ り。一騎当千の。秘術を顕し大勢を。粟津 の汀に追つつめて磯打つ波の。まくり 切り。蜘蛛手十文字に。打ち破り。かけ

通つて。其後。自害の手本よとて。太刀 をくはへつゝ逆さまに落ちて。貫かれ失 せにけり。兼平が最期の仕儀目を驚かす 有様なり目を驚かす有様。