勅使 従者 老人 老女 源太夫の神 橘姫

ワキ、ワキツレ二人次第「曇なき名の日の本や。/\。熱 田の宮に参らん。ワキ詞「そも/\これは当 今に仕ヘ奉る臣下なり。さても尾州熱田 の明神は霊神にて御座候ふ間。急ぎ参詣 申せとの宣旨を蒙り。唯今熱田の明神へ 参詣仕り候。道行三人「何事も道ある御代の 旅とてや。/\。関の戸さゝで逢坂の山 を都の名残にて。末も東の道遠き。行く へなれども程もなく。国々過ぎてこれぞ 此。熱田の宮に着きにけり/\。 シテツレ真ノ一声「朝清め。落葉を掃ふ程ならし。 風をも松の。木蔭かな。ツレ二ノ句「神の御前の 瑞籬の。二人「久しき代より仕ヘ来ぬ。

サシシテ「これは当社に年ひさしき。夫婦の者 にて候ふなり。二人「それ千早振る神の職 事。さま%\なりと申せども。こゝは 処も浦さびて。眺の末は海山の。雲と波 とに移り行く。気色ぞかはる明暮に。馴 れても通ふ心とて折々毎にめづらしさ よ。もとよりも誓の海の底ひなく。深き 教の彼の国に。安く至らん法の御舟。仏 の道もよそならぬ。神の恵を頼むなり。 下歌「歩を運び年月を送り迎へて老が身 の。上歌「夙に起き夜半に寐覚め仕へてぞ。 /\。ながらへ来ぬる春秋の。月に馴れ 花に添ふ心も老と身はなりて。誠を致す

志。実に神感も頼もしや/\。 ワキ詞「我暁天より星を戴き。宮中を拝す る所に。これなる老人夫婦神前を清め御 垣を囲ふ気色見えたり。御身は宮づこに てましますか。シテ「さん候これは当社の 宮づこにて候。分きては御垣守にて候ふ 程に古りたる処をかこひ。時々は庭を情 め信心を致し候。 ワキ「実に/\有難う候。大方神前に於て 御垣を囲ひ申さるゝ事と云ひながら。先 は大内の御垣守とこそ申すべけれ。分き て当社の御垣を囲ふ謂の候ふやらん。 シテ「御不審は御理にて候。忝くも当 社と申すは。出雲の大社と御一体の御事 ぞかし。ツレ「然るに往時素盞嗚の尊。出 雲の団に至り給ひ。御宮造ありし時。 シテツレ二人「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに。八 重垣作る其八重垣を。こゝにも由緒はあ るものを。不審な為させ給ひそとよ。

ワキ「謂を聞けばありがたや。さては出雲 と御一体。和光垂跡の御事なるか。なほ なほ謂を語り給へ。シテ詞「景行第三の皇子 日本武の尊と申しゝは。東夷を平らげ国 家を鎮め。終にはこゝに地を占め給ふ。 ツレ「これ素盞嗚の御再来。衆生済度の方 便にて。シテ「或は人の代。シテツレ二人「或は又。 地「神の代を思ひ出雲の宮柱。/\。立 ち添ふ雲も八重垣の。こゝも隔は名も異 に。誓は様々変れども。一体分身の御神 所。一心に仰ぎ給へや。時は三伏の夏の日 の熱田の宮路浦伝ひ。近く鳴海の磯の波。 松風の声寐覚の里。聞くにも心涼しく。老 の身も夏や忘るらん/\。ワキ詞「猶々当社 の謂委しく申し候へ。シテ「懇に申し上げ うずるにて候。地クリ「それ和光同塵の御垂 跡。何れ以て疎かならねど。威光を四方に 現し給ふは。これ八剱の神徳なり。サシシテ「然 れば景行第三の皇子。御名は日本武の尊。

地「地神五代には天照太神の兄。素盞嗚 の尊。出雲の国に跡を垂れ。暫く宮居し 給へり。シテ「こゝに簸の川上に涕哭する 声あり。地「尊至りて見給へば。老人夫婦 が中に。乙女を抱き泣き居たり。これを 如何にと尋ぬるに。クセ「老人答へて申す やう。我は手摩乳脚摩乳。娘を稲田姫と いふ者にて候ふが。大蛇の生贄を悲しむ なりと申せば。然らば其処を我に得させ よその難を遁すべしと宣へば。喜悦の心 妙にして尊に姫を奉る。シテ「やがて大蛇 を従ヘ。地「其尾にありし剱を村雲の剱と 名づけしこそ八剱の宮の御事よ。されば 簸上の明神は其時の稲田姫なり。父の老 翁名をかへて源太夫の神と現れ。東海道 の旅人を守らんと誓ひ給へり。 ワキ詞「実にありがたき神秘の教。唯人な らず覚えたり。御名を名乗り給ふべし。 シテ「今や何をか包むべき。簸の川上に現

れし。ツレ「我は手摩乳。シテ「脚摩乳。ツレ「夫 婦これまで。シテツレ二人「現れたり。地「常なら じ御身は勅諚の使なる故に。仰ぐべし 神とても。人の敬深ければ。守らん為 に来りたり。こゝにては源太夫の。神ぞ と名乗り捨てゝ。行く方見えずなりぬ行 方知らずなりにけり。来序中入間「。 ツレ出端「我はこれ。真如実相の無漏を出で て。有為の濁塵に光を交へ。結縁の衆生 擁護の神。橘姫とは我が事なり。シテ「我 はまた無縁の衆生を利益せんとて。東海 道を日夜に守る。源太夫の神とは我が事 なり。地「あら有難や。 ワキ「実に有難き御影向。感涙肝に銘じつ つ。心空なるばかりなり。ツレ詞「とても姿 を現さば。いざや舞楽の曲を尽し。かの 客人に見せ申さん。シテ「実に/\これも いはれたり。さて役々は。ツレ「糸竹の。 シテ「中に異なる太鼓の役。ツレ「即ち御

身。シテ「源太夫が。ツレ「嘉例もさぞな。 シテ「思ひ出づる。地「昔も打ちたる。太 鼓の御役。今も妙なる秘曲を添へて。撥 も数ある楽拍子。今打ち寄るも。波の調 面白やな有難や。楽 シテ「面白の遊楽や。地「面白の遊楽や。時 しもあれや月も照り添ひ。松風も涼しく て神さび渡れる折柄に。およそ人間の業 なりとも感応などか無かるべき。まして

や神仙の事業なれば。実にも妙なる御代 のしるし。治世の声は安楽にて。琴瑟は 玉殿に。せうくわていしやう官商上り下 る時に声。綾をなす舞歌の曲。程時移る かと。早明方になりぬれば。都に帰るは 勅の使。さてこそ名残の還城楽さてこそ 名残の還城楽の鼓の声や二十五声の。五 更の一点より夜は白々とぞ明けにける夜 は白々とぞ明けにける。