伊弉諾尊(前ハ老人) 臣下

ワキ(三人)次第「治まる国の始もや。/\淡路の 神代なるらん。ワキ詞「抑これは当今に仕 へ奉る臣下なり。偖もわれ宿願の子細 あるにより。住吉玉津島に参詣仕りて 候。又よきついでなれば。これより淡路 の国に渡り。神代の古跡をも一見せばや と存じ候。道行三人「紀の海や。波吹上の浦風 に。/\。跡遠ざかる沖つ舟。潮路程な く移り来て。よそに霞し島かげや。淡 路潟にも着きにけり/\。ワキ詞「急ぎ候 ふ程に。これははや淡路の国に着きて 候。此処の人を待ち。神代の古跡を尋ね ばやと存じ候。 シテツレ二人真ノ一声「神の代の。跡を残して海山の のどけき波の淡路潟。ツレ二ノ句「種を収めし国

なれば。二人「苗代水もゆたかなり。シテサシ「そ れ陰陽の神代より。今人界に至るまで。 二人「山河草木国土は皆。神の恵に作り田 の。雨つちくれを潤して千里万里の外ま でも。皆楽める時とかや。歌「頃しも今は 長閑なる心の池のいひがたき春のけしき も様々に。春の田を人に任せてわれ は唯。/\。花に心の憧るゝ。盛りにひか れて苗代の水に心の種蒔きて。散れば此 処もや桜田の。雪をもかへすけしきか な/\。 ワキ詞「いかにこれなる翁に尋ぬべき事あ あり。おことの風情を観るに。小田をかへ しながら水口に幣帛を立て。誠に信心の 気色なり。いかさまこれは御神田にて候

ふか。シテ「さん候春の田を作らんとて は、よろづ祝ぶ事の候ふ程に。あの水口 に斎串とて五十の幣帛を立て。神を祭り 候。然ればある歌に。谷水をせく水口に 斎串たて。苗代小田の種まきにけり。 詞「其上此御田は。当社二の宮の御供田 にて御座候程に。殊には内外清浄にて 御田を作り候ふよ。ワキ「偖は当社二の宮 にてましまさば。国の一の宮はいづくに てましますぞや。若し楪葉の権現にて御 座候ふやらん。シテ「畏れながら悪しく御 心得候ふものかな。当社は二の宮にてま しませばとて。国中一二の次第にあらず。 ツレ「御覧候へ当社の神達。二柱の社の御 殿なれば。シテ詞「二つの宮居を其侭にて。 二の宮と崇め奉るなり。シテツレ「これは すなわち伊弉諾伊弉冉の尊二柱の。神 代のまゝに宮居したまふ。淡路の国の。 神は一きう宮居は二つの。二の宮と崇め

申すなり。ワキ「よく/\聞けばありがた や。偖々かゝる国土の種を。普く受くる 御恩徳。唯此神の誓よなう。シテ詞「事新し き御諚かな。国土世界や万物の。出生あ まねき御神徳。唯これ当社の誓なり。 ツレ「然れば開けし天地の。伊弉諾と書い ては。シテ詞「種蒔くと読み。ツレ「伊弉冉 と書いては。シテ詞「種を収む。ツレ「これ目 前の御誓なり。シテ「其上神代は遠からず。 ツレ「今目の前にも。シテ「御覧せよ。地上歌「種 を蒔き。種を収めて苗代の。/\。水う らゝにて春雨の。あめより降れる種蒔き て。国土もゆたかに千里栄ふる富草の村 早稲の秋になるならば。種を収めん神徳 あらありがたの誓やなありがたの神の誓 やな。 ワキ詞「猶々当社の神秘ねんごろに御物が たり候へ。クリ地「それ天地開闢の昔より。 混沌未分やうやく分れて。清く明らかな

るは天となり。おもく濁れるは地となれ り。シテサシ「然れば天に五行の神まします。 木火土金水これなり。地「既に陰陽相分かれ て。木火土の精伊弉諾となり。金水の精 こりかたまつて伊弉冉と顕る。シテ「然れ ども。まだ世界ともならざりし先を伊弉 諾といひ。地「国土治まり万物出生する 所を伊弉冉と申す。すなはち此淡路の国 を始とせり。クセ「さればにや二柱の御神 の・〓{オノ}馭盧島と申すも此一島の事かとよ。 凡そ此島始めて。大八島の国を作り。紀の 国伊勢志摩日向並に。四つの海岸を作 りいだし。日神月神蛭子盞烏と申すは。 地神五代の始にて。皆此島に御出現。中 にも皇孫は。日向の国に。天降り給ひて。 地神第四の火々出見の。皇子を御誕生げ にありがたき代々とかや。シテ「天下をた もち給ふ事。地「すべて八十三万。六千八 百余歳なり。かゝるめでたき皇子達に。

御代をゆづりはの権現と。現れおはしま す。伊弉諾伊弉冉の神代も唯今の国土な るべし。 ロンギ上「げに神の代の道直に。/\。今 も妙なる秋津洲の君の御影ぞありがた き。シテ「御影ぞと。夕日隠の雲の端に。 たなびく天の浮橋の。古を現して。御客 人を慰めん。地「そも浮橋の古と。聞く はいかなる言の葉の。シテ「其神歌は烏羽 玉の。我が黒髪も。地「乱れずに。結び定 めよ小夜の手枕の歌の種蒔きし。神とも 今は白波の。淡路山を浮橋にて天の。戸 を渡り失せにけり/\。中入。 ワキ上歌三人「げに今とても神の代の。/\。 御末はあらたなりけりと。いへば虚空に 夜神楽の。月に聞えて光さす。気色ぞあ らたなりけるや気色ぞあらたなりける。 後シテ出端「わたづみのかざしに挿せる白玉 の。波もて結へる淡路島。月春の夜も長

閑なる。翠の空も澄み渡る。天の浮橋の上 にして。八島の国を求めえし。伊弉諾の神 とは我が事なり。治まるや国常立の始よ り。地「七つ五つの神の代の。シテ「御末は今 に。君の代より。地「和光守護神の扶桑の 御国に。風は吹けども山は動ぜす。神舞 ロンギ上「げにありがたき御誓。/\。そ も/\天の浮橋の。其御出所はさるにて も。いかなる所なるらん。シテ「ふりさげ

し。鉾の滴露こりて。一島となりし を。淡路よと見つけし此処ぞ浮橋の下な らん。地「げに此島のありさま東西は海漫 漫として。シテ「南北に雲峯を列ね。地「宮 殿にかゝる浮橋を。シテ「立ち渡り舞ふ雲 の袖。地「さすは御鉾の手風なり引くは。 潮の時つ風治まるは波の芦原の。国富み 民もゆたかに万歳をうたふ松の声。千秋 の秋津洲。をさまる国ぞ久しき/\。