星野太『崇高の修辞学』トークショー(高橋台本)芸宿 2017-03-17(Fri) ☆前提1 崇高(sublime)とはなにか? カントの定義(p.15、157) 美……積極的な快。感性的(感性と悟性概念との一致時の感情)。悟性と構想力の一致、質。 崇高…消極的な快。超感性的(理性理念の表出不可能時の感情)。理性と構想力の不一致、量。 これらは、近代的・美学的崇高と呼ばれるもので、つまり造形芸術的な問題である。 それに対して、テクスチュアル・サブライム(修辞学的崇高)、 修辞学(レトリケー、レトリック。弁論術)。つまり言葉の問題がある。 『崇高論』、紀元1世紀成立、伝ロンギノス作。ギリシア語。 ☆前提2 哲学(真理に至る正しい言葉)と修辞学(効果的に飾られた言葉)の対立、その間 理解(知) 哲学 哲学者 (真理・根源)それ自体に根拠がある。 説得(信) 修辞・弁論 ソフィスト(相対主義者)そう思われればそれが正しい。 陶酔(興?)崇高 …… 詩学 ? ロンギノスの崇高「傑出し卓越したロゴス(ことば。思想と表現)」 崇高は、理解からみて説得の向こう側にあるのか、あるいは理解と説得の間の特異点なのか。 以下、「cf.」 は高橋私見・質問。 第1部 古代(原型) 第1章 真理を媒介する技術―ピュシスとテクネー ☆言語の行使における自然と人為、その相補性 崇高のロゴスには5つの源流(要素)がある。これらは生得的なものと技術的(後天的)なものとに大別できるが、その生得性と後天性とは相補的である。そして、思考をめぐる問題として、崇高の修辞学は真理に至る(を媒介する)ことが出来る、とされる。 用語 ピュシス(自然・才能)/テクネー(人為・技術)。 崇高のロゴスの5つの源流(思考、感情 / 比喩、表現、構文) 両者の相互補完性「ピュシスによってのみ到達しうるロゴスがある、という事実がテクネーを通して明らかになる」(p.45)最高の比喩は、それが比喩であることに気づかれない。 「テクネーはピュシスのミメーシス(模倣→現前化)を通して、真理を現前化する。同時に、ピュシスはその輝きによってテクネーを覆い隠す。」(p.53)。 「テクネーはピュシスを模倣し、ピュシスはテクネーを内包する。」(p.55) cf. 自然と人為。神の原理と人間の原理、その対立と融合。 ・言葉は意味を発現し、意味は言葉を覆い隠す。最終到達点として、言葉の物質性はどこにあるか?丸山圭三郎『ソシュールの思想』130頁(シニフィアンは実質でなく形式である)。ソシュール言語学(記号学)は物質を排除してきた。 第2章 情念に媒介されるイメージ―パンタシアーとパトス ☆「イメージの伝達」という問題。不在の事物を喚起する力。想像力論、共感論。 イメージとは何か? 絵画や彫刻におけるそれではなく、あくまで言葉によって喚起されたイメージ。絵画や彫刻だけでなく、言葉にも像(eidos,bild,picture)を作る力がある。 @聴衆にイメージを見せる能力「パンタシアー」は、修辞的な技術(テクネー)でなく、語り手の精神の偉大さ(ピュシスとしての)に属するものである(p.63) A語り手の強い感情「パトス」(ピュシス的な)によって、卓越したロゴスは語り手と聞き手達とを同一化する。共感の紐帯。 用語 パンタシアーの変遷 ・プラトン『ソピステス』263D(感覚、または感覚を通して行われる判断) 思考(ディアノイア)/魂の内にあって声を伴わない 言表( ) /音声を伴う思考 判断(ドクサ) /魂の中で行われる、言表による肯定と否定の作用 現われ(パンタシアー)/感覚や判断、またはそれらの混合で、そう見えること(知覚判断) ・アリストテレス『デ・アニマ』428A(感覚や判断とは異なる、心的な表象) 「感覚と判断の混合」(プラトン)ではなく「表象する能力」。表象のはたらき。心的表象。心に浮かぶ像(知覚・感覚以外の表象も含む)。 ・初期ストア派(パンタシアーがロゴスを生み出す) パンタストン(実在的な対応物) パンタシアー(把握可能な表象) パンタスティコン(パンタストンを原因としない表象。錯覚) パンタスマ(パンタスティコンによってもたらされる。幻覚) ・ロンギノス(熱狂やパトスによって、自ら像を作り、人にも見せるロゴスを生み出す) (プラトンも)アリストテレスもストア派も小異はあるが、パンタシアーを「ロゴスを生み出す精神上のあらゆる思念」とし、ロンギノスもこれを一般的見解として認める。ただし、アリストテレスやストア派のパンタシアーは対応する実在物を持ち、かつ理性や知性に裏打ちされていたが、ロンギノスのそれはストア派いうところのパンタスマ(幻覚)に近いもので、「熱狂やパトスの力に突き動かされ、自身が描き出すのを自ら見ているように感じ、それを聴衆の芽にも映し出すような」(p.72)ものである。 影像を作るパンタシアー(テクネー的な)と、ロゴスに先立つパトスとしてのパンタシアー(ピュシス的な)との錯綜はあるにせよ、ロンギノスのそれはもはや受動的な現われでなく、積極的に創造されるパトス的イメージである。 ストア派においてパトスは排除さるべきものであったが、ロンギノスにおいてはパンタシアーの動因であり、話し手と聴衆を繋ぐ共感の紐帯として評価された。 cf. ・伝達の問題は第2部(ボワロー、バーク)へ引き継がれる。 ・イメージとはなにか?そして、それはなぜ視覚と結びつくのか?そもそも視覚性とは何であり、何でないのか? ・パンタシアーのラテン語音写 phantasiaとラテン語imaginatioとの対応を定着させたのはアウグスティヌスだそうである(新アリトテレス全集『魂について』解説・注4)。 ・プラトン、アリトテレス、初期ストア派などの像の分類は素朴だが現在でも有効のように思えます。それに対して、ベルクソンのイメージ論(実在の表象のあいだをとったもの。)、現象学的還元(実在をエポケー・肯定した表象論)、前期ウィトゲンシュタイン、素朴心理主義(世界はわたしの世界である、唯脳論など)などは、どこまで有効か。知覚の問題は、像を作ること以上の問題として、今日どう構成されているか。 ・他方で、言葉のミニマル・イメージ(ブランショ=郷原佳以)が考えられている。非視覚的・非知覚的なイメージについて。 第3章 瞬間と永遠を媒介するもの―カイロスとアイオーン ☆引用・反復による崇高なテクストにおける時間性の発現。「世界最古の比較文学…」 用語 カイロス(瞬間、時宜を得ること) アイオーン(後世における永遠性) cf.不易流行(芭蕉) 「引用」とは、カイロスとアイオーンを同時に実現する方法である。 あるいは、現在、過去、未来の競合関係を作り出す言語行為である。 S・ゲルラクの引用論/言表されたこと(実質)ではなく、言表すること(形式)が「永遠の名声」を実現する。cf. 構造主義的・テクスト理論風の形式主義か。 ハーツの引用論/非直線的・累積的な引用の布置関係によって、自らのテクストと過去のテクストとは「競合関係」に入る。自らの崇高なテクストの実現のための比喩形象である。 cf. 言語における時間性の問題。テクスト理論を超えて。 ・「文字が過去(歴史)を可能にする」というテーゼがある(河野六郎「文字の本質」『岩波講座日本語』8、1877年。デリダ『グラマトロジー』上 p.64)。話し言葉(口承)は現在にすぎず、言語(文字)が他なる時間(過去、未来)を可能にする。 ・武田雄介「アペルト6」での諸メディウムにおける時間的な対比。installation(装備・現在)/inscription(刻印・過去) ・ベルクソンによる現在(物質・身体)/過去(観念・精神)という二元論、ドゥルーズによる潜在的なものの(過去)の現働化(現在)。生成を認めるこれらの哲学に対し、テクスト理論は時間性を持たず、その生成性は抽象的で、事前・事後の区別を許さない。 ・バルト=クリステヴァのテクスト理論風の引用概念はすべてを現在化・平準化するものではないか。時間性(カイロス・アイオーン)の問題として仕立て直された星野の引用論によってむしろ理解されるのは、言語活動(書くこと)や引用(口頭であっても)が、現在とは他なる時間を実現するということである。書くことや引用することはまず過去の潜在化であり、ついでその現働化(カイロス)であり、さらに未来への名声・接続(アイオーン)だ、ということである。 第2部 近代(変奏、適用可能性) 第4章 崇高論の発明―ボワロー『崇高論』翻訳と新旧論争 中世ヨーロッパ、イスラム文化を経て、古代ギリシア・ローマの文献が、新旧論争ただなかの時代に再発見される。 ☆ボワロー(古代派)による翻訳・解釈。 ボワローによれば、「崇高な文体」は「大げさな言葉」にすぎないが、「崇高」は「並外れたもの、驚くべきもの」、「魂を熱狂させ魅了する、言説の力」、「偉大な思考、高貴な感情」「壮麗な言葉」「表現によって調和、活力、生気を与えられた言い回し」によって実現されるもの。修辞よりもむしろ切り詰められた「単純さ」によって実現されるもの。 パンタシアー概念の改変。イメージ論。 ロンギノスにおいて、イメージはパトスによって語り手と聴衆の間で交感されていた。崇高な精神は聴衆に像を見せていた(パトス的イメージ)。 ボワローにおいて、パンタシアー≒エイドロポイイア(影像を作ること)はイメージ≒描写・虚構(fictions)と訳された。イメージとは「精神のなかに絵を描くこと」である。また、虚構とはボアローの叙事詩論において、人に驚きや感銘を与えるための「装飾(ornament)」である。ボアローは、イメージがパトスによって媒介されるとは考えず(他人の心をそのまま見ることは出来ないから。見えざるものは見えないから)、誤訳を犯してまで、「装飾」という言語による可視化のプロセスを想定した。これによりロンギノスの崇高論を新古典主義的な「表象の体制」へと組み入れたのである。「驚異的なもの」や「いわく言いがたいもの」など言語化しがたいものもまた同様に、修辞学へ回収されていく(言葉の装飾としての修辞学?) ただし、ロンギノスの「パトス的イメージ」は十九世紀ロマン主義の詩人において復活していく。 cf. 新旧論争と表象の体制、パンタシアー概念の変容。 ・日本近世の新旧論争(復古思想)。近代派は武士・朱子学。古代派は古学・古文辞学、国学だが、宣長の観念的古代と秋成の残存する古代はまた違う。 ・表象の体制とは? フーコー『言葉と物』、外的実在と内的表象の対立。言語によって伝達されてきたものが、いつの間にか(?)視覚的な対象となっている。あるいはその逆? ・パトス的イメージは、「ロマン主義における詩人の才能を特徴づけるための符牒として回帰する」(p.123)。デニス、エイブラムズ(p.145) 第5章 言葉と情念―バーク『崇高と美の観念の起源』と言語の使命 ☆パンタシアーの排除 ロンギノスは崇高を実現する生得的源泉として、@思考(散文)とA感情(パトス、詩)とを、形式・内容ともに区別していた。またパトスの共感を可能にするものとしてパンタシアー(像をつくる能力)想定し重視していた。それに対して、E・バークは、言語のはたらきのうちから、像を作り出す作用(パンタシアー)を排除した。すなわち、言語は共感(力強い表現)を得意とし、模倣(明晰な表現)を目的としないし、集成語、単純抽象語は像を作りうるが、合成抽象語は像を作り得ず、かわりに共感を実現するがゆえに貴い、とされる。 ボワローがパトスによる伝達を言語から排除したのに対して、バークは、パンタシアー(像を作る能力)を排除したのである。これにより、近代的な崇高概念が成立する。 バークの言語観 ・単語の3効果 @音(sound) A像(picture)音によって意味される事物の表象 B魂の感動(affection of the soul) ・単語の3分類 集成語 /現実の実在物に対応する語 @ABとも作りうる。 単純抽象語/単純な観念に対応する語 合成抽象語/複雑な要素からなる抽象語 @Bは作るが、Aを作らない。 ・言語の本質/ 「明晰な表現」、像を作り出すこと(図像的・絵画的な模倣)でなく、 「力強い表現」語り手と聞き手との共感を作り出すことである。 cf. ・像に拠らない共感(≒意味伝達)の可能性。 像(≒聴覚映像)の体系をラング(ソシュール)と呼ぶとして、像を排除するこの言語観はどのような源流を持つのか。英国流経験論の共感論、ヒュームらとの関係は? ・像とは必ずしも視覚的なものとは限らない(のか?)。ウィトゲンシュタイン『論考』「2.12 像は現実に対する模型である」。実在―像―論理形式―命題―言語。あるいは、ベルクソン『物質と記憶』のイメージは、実在物と知覚像の間であるが、行動主義的な活動の可能的対象でもある。 第6章 「美学的崇高」の裏箔―カント『判断力批判』における修辞学 ☆カントの崇高論を背後で支えている言語(修辞学)の問題 カントの崇高論 →近代的、美学的(感性的)、非―修辞学的な崇高概念 @美 /悟性と構想力の一致、質。 崇高/理性と構想力の不一致、量。 A数学的崇高/継起的には把握できるが総括不能な、無限のもの。大聖堂、ピラミッド。 力学的崇高/自らに危害を及ぼさない、大きな力、威力。火山、暴風、津波、瀑布。 →視覚的(感性的)経験。しかし、Bで述べるように、実は「崇高はいかなる感性的形式のうちにも含まれない」。崇高は理性の内部にしかない。 B無限に進展する構想力(想像力)が全体的認識としての理性理念へ至ろうとして失敗するとき、むしろ超感性的能力としての理性に対する感情が崇高として喚起される。 →感覚的な対象をきっかけとし、超感性的で把握不可能な理性の対象として崇高が感ぜられる。 カントの修辞学批判と詩学の肯定 カントによれば、修辞学は人をあざむき、人の判断を誤らせる「陰険な技術」である。詩(芸術)もまた自らが作りだした任意の仮象と戯れるが、詩はあざむかず、心を楽しませ、生気を与え(活気づけ)、悟性と構想力のために合目的的に使用される(から良いものである)。 →プラトン以来の哲学的な言語(修辞学)観、ソフィスト批判のようにみえる。 ABで述べたように、崇高な対象(数学的、力学的)はきっかけに過ぎず、崇高なものは内的な理性のうちにしかない。にも関わらず、カントは、言葉によって表現された崇高な対象にも言及している。これはどういうことなのか? すなわち、言葉は構想力によって、関係の形式(時間と空間)から解放されて無限の表出を可能にする、という。その具体例。 (A)ユダヤの戒律「汝、汝のために刻み込まれた像を決して作りだしてはならぬ。」 (B)イシスの碑文「われは現に存在するもの、かつて存在したもの、これから存在するであろうもの、これらすべてのものであり、死すべきいかなるものであろうとも、わがヴェールを取り除いた者はいない。」 これらは、神による「無―表象」をめぐる言葉だが、この言説がカント哲学に存在するのは不整合ではないか。なぜなら、これらは「言葉」であり、感性的対象ではないからである。あるいは、これらを詩学の対象とするなら、美の対象とすべきなのに、崇高であると言われているからである。このように、カントにおいて実は言語的(非感性的、非詩的―美的)な崇高の対象が存在している。 cf. 言語が感性的な対象でないことは、ボワローやバークによるパンタシアーの排除、像の排除によって準備された、ということか?ソシュール言語学においても、シニフィアン(聴覚映像)は、実質(シュプスタンス)ではなく形式(フォルム)である。古代においては、意味の発現する限りにおいて、技術は隠されていたが、技術が真理を開く、とも言われており、相補性が担保されていたのに。 イシスの「人間の内なる理性の声」と「いかなる解釈も許す神託の声」 イシス(母なる自然)の碑文に見えるヴェールを被った女神を、カントは別の場所で、道徳法則の比喩として用いている。カントは次のように考える。すなわち、道徳法則を人格神に例えること(類比)は、道徳を自己の内なる理性に由来する人間のものとしてではなく、理性を経由して何らかの存在が人間に語りかけているかのように聞こえてしまい都合が悪そうだが、それはさしあたって問題ではない。「理性の声」であろうが、「神託の声」であろうが、正しく道徳法則を論理的に判明に取り出せば良いだけだからだ。問題は、対象を活気づけるこの「美的な表象形式」(比喩)が、道徳法則の「感性的描出」であり、「一切の哲学の死である、夢想的な幻影に陥る危険」を伴う点にある。この比喩によってさえ道徳が論理的・明晰的に扱いうるならば良いが、そうではなく、道徳の感情に訴えて義務の概念に導かれているのであれば、理性の声は「いかなる解釈も許す神託の声」(なんでもありの道徳)となってしまうだろう、と。 カントは、この時、類比・比喩等の「感性的描出」をいたずらに使用する「幻視の哲学者」を現代のソフィストとして批判しているのである。(☆前提1) カント哲学の背後にある修辞学 星野によるカントへの批判・脱構築は、カント自身のこの論理運びこそまさにレトリカルではないか、というものである。 すなわち、哲学の任務は「われわれの内なる道徳法則」を「論理的方法によって判明な概念にする」ことであり、それが出来るだけで良い。それゆえ「理性の声」と「神託の声」との区別は不要だ、とカントはプラグマティックに言うが、この区別抜きに適用可能な「論理的方法」とは何であろうか。それこそがソフィスト的な方法なのではないか。(理性の声を聞けるのがカントで、得体の知れない「神託」をきいているのがソフィストだと、端から決めてかかっている) もう一点。「心を活気づける(beleben)」とは、構想力の働きの根本である。また、構想力(再生的/産出的)の特徴一つに「ヒュポテュポーシス(感性的描出)」の作用がある。ピュポテュポーシスを論じたガシェも指摘するように、構想力(Einbildungskraft)は、哲学より修辞学に多くの伝統を負う語彙である。「カントが、とりわけ『判断力批判』において、構想力を綜合の能力〔…〕として鋳直したことは、おそらく修辞学の資源を活用していると見て良いだろう。」(ガシェ)。 cf. ・カントの構想力概念には、ヒュームの想像力論の影響はどのようにあるか。あるいは、デカルトの想像力論などは?しかし、ガシェは、構想力を特徴づける「ヒュポテュポーシス」を以て、構想力が修辞学に由来していることを説くのですね。 ・ドゥルーズは、晩年の『判断力批判』のカントは猛り狂っている云々と言い、面白そうだが、しかしやっぱりカントは難しくてねえ(笑)。ぜひ、明解に学生に教えて行ってください。 第3部 現代(脱構築、適用例) 第7章 放物線状の超越―M・ドゥギーと崇高の詩学 ☆非―垂直的な超越、放物線状の。 ドゥギーのロンギノス論「大-言 le grand-dire」は、 ヒュプソス(hypsos 崇高)を「高み」と訳す。修辞における誇張法(hyperbole)は上方への投擲(hyper-bole)である。思考が到達すべき高みへ至る言語の方法として。 また、比喩(のように comme)は、崇高と相互補完的な関係を持っている。「言うことの起源の神話。最初に交換があった。」「言語には贈与の形式が書きこまれているのであり、それこそがまさしく言語なのだ。」 cf. 言語における交換(共感?理解?)それ自体が、言語の根本問題だったのではないか。もちろん、プラグマティズム、言語ゲーム論、スピーチアクト説などによれば、使用(≒交換)こそが言語の意味である。しかし、詩など、対象を持たない言語(パンタスマ)を他者と使用するのは難しいだろう。ドゥギーの「互いに与えあいながら、同時にそのつど共通の尺度を失考させていくという特異な交換の様態」が、等価交換という均衡を欠く反エコノミー、「誇張」「比類なきもの」だという解説は鮮やかではあるが。 「何ものも「宙に浮いた」ままでいることはできず、崇高からの再失墜は宿命づけられている。」、「崇高」は「落下が宙吊りにされた中断地点なのだ。」 この崇高論は、感性的/超感性的、美学的/哲学的という二分法を同時に退ける。人間という「死すべきもの」の言語による、神という「不死なるもの」の領域を示す「寓意的な(parabolic)」な運動(p.212) cf. この形而上学的超越への批判はかっこいいが、かっこよすぎて、なんかすっきりしない(笑)。 ・でも、拙稿「わたしは真悟、内在する高度」(『楳図かずお論』第3章)は、この論とすこし関係しますか? ・登山もまた同じかな。何のために登るのか。運動ゼロの瞬間的な時・場。 ・放物線状の(parabolalic)←→ hyperbolic(双曲線の)、次のラクー=ラバルトと逆なのはなぜ? 第8章 光のフィギュール―ラクー・ラバルトと誇張の哲学 哲学の問いとしての崇高論。ラクー・ラバルトによるハイデガー批判、およびアナクロニックなロンギノス評(近代的美学的崇高概念をロンギノスに当てはめる)によって逆に分かることがある。崇高は美と対をなすものではなく、むしろ美が美であることを可能にする根源的な条件として提示されうる。美はエイドス的に、かたち・外観として現れるが、崇高は「いわく言いがたいもの」として、それ自体は見ることが出来ない「光」として。 cf.光はプラトンにおいてイデアの認識、プラトニズムそのものではないのか。 美のうちにあって、エイドス的な把握に還元されない、それなしでは美が美でしかないような、光の輝きが崇高である。このパラドクスは、ピュシスとテクネーの相補性に見出だされる典型的なパラドクスである。 cf.これもやはり形而上学批判であるとすれば、光の輝きはプラトンのイデア認識ではなくて、美の条件であり、かつ非―エイドス的なもの、物質性なのかな。アリストテレスもまた「パンタシアー」の語源に光(ファオス)があるのは「光なしには見えないからである」と言う(デ・アニマ 429a) ・拙稿のマンガ描線論(『楳図かずお論』第8章など)は、この論とすこし関係しますか?エネルゲイアとデュナミスの往還的な関係です。 再説 第一のミメーシス/テクネーはピュシスを模倣する。 第二のミメーシス/ピュシスはテクネーを内包する。 パラドクスとは、相板するものどうしの無限の交換、あるいはその双曲線的=誇張的な同一性である。対立するあるものがその極致へいたるとき、逆説的にそれは他方のものと交換可能となる。ピュシスとテクネーの関係をこのように捉えることができる。 第9章 読むことの破綻―ド・マンにおける崇高とアイロニー ☆ポール・ド・マン、この分析はブースの穴を突くか!? 文法(字義)通りと修辞の差異をド・マンは得意とする。 例1「どんな違いがあるんだ!?」/ここに要請されているのは文法通りか修辞かの区別ではなく、質問に答えうるか答えることにの禁止であるか、つまり疑問(回答許可)か反語(回答禁止)かの違いである。さらに、かつその違いへの問いかけ自体が疑問か反語か決定不能を孕んでしまう(どっちなのか?という言葉は疑問か反語か?)、結果として回答可能と不能の間で中吊りとなるが、この状態こそが「修辞的」なのである。 cf. ド・マンの言うてる論理がいまいち分からない。決定不能も修辞学も良いもので、また修辞と文法の対立ではなくて、世界がすべて修辞になるのが理想、みたいな感じか。ならそれは間違った思想だと思う。対立してていいと私は思う(ハイパーボリックに、往還的に)。 例2「踊り子と舞踏をどうして切りはなしえようか」/疑問か反語か。これが反語でなく疑問だとしたら、「切迫した響きを持ちうる」と言いながら、「首尾一貫した読みをもたら」さない、とド・マンは言っている。 cf.「首尾一貫した読み」の途を探して他の可能性の芽を摘むことは、テクストに向き合わず、不正直な、わるい態度なのだろうか。ああも読めるこうも読めるとそれらの可能性を次々に提示するがテクストの幸福なのだろうか。そうではなく、修辞の力とはあり得た他の可能性を抹消する力ではないだろうか。「我が輩は猫である」がレトリカルなのは、猫なのか人間ぽいのかが中吊りになっているからではなく、「我が輩が猫である」こと以外の他の可能性を抹消しえている点にあるのではないだろうか。これが論理学であれば、常に他の可能性は開かれたままである(たとえば猫が言語を使用する可能世界)。もちろん、修辞学がフィクションを対象とするかぎりにおいて、可能世界にも開かれていはいるが、あくまで修辞学は一つの読みを目指していないだろうか。また、読むとはそういうことではないのだろうか。 ド・マンによれば、カント「…観察」における「文字の散文的な物質性」とは、「文字や音節の戯れ」であり、「ついにはわけがわからなり、もはやそれを区別できなくなってしまう」ようなもの、であるらしい。 cf. 物質性と観念性(意味)とは往還的であって、ハイパーボリック(双曲線的)であって、たとえ脱構築主義者に「中吊りであり、決定不能である」「他の読みも可能である」と言われても、ささやかな一つの読み(意味)を提示することは出来てしまうだろう。物質は意味となってしまうだろう。 ・そして、意味に達してもまた、もとの物質にもどってしまう(カントもド・マンも、星野先生のこの本でさえも!)、読んでもしばらく経つと忘れてしまう。だから私はもう一度読み直す。投げ返すのだ(パラボリックに!)。 ・ブースのアイロニー(反語)論は、私には非常に好ましい。アイロニーによる確定不能という事態に対し、「連鎖を断ち切るのは、アイロニーではなく、アイロニーを理解したいという欲望なのである。」と言う。アイロニーというレトリックで無限後退に陥ってしまう人などどこにもいないのは、アイロニーをどこで停止させたらよいのか学ぶからである、と。 星野は、ブースのテクストを「アイロニーを理解したいというわれわれの欲望」(p.255)、「われわれがテクストを理解したいと思うときには」(p.259)と正しく読んでいるが、ド・マンは「欲望」「したい」を無視し、意図的にか誤読している。すなわち、「アイロニーを停止させる方法とは理解すること、つまりアイロニーを理解するすること、アイロニーの進行過程を理解することにほかならない。理解することによってわれわれは、アイロニーを統御すること出来るようになるだろう、というわけだ。しかし、つねにアイロニーが理解可能なものであり、つねにアイロニーが理解可能なアイロニーであり、理解可能なものかどうかという問いがつねにアイロニーにとっての賭け金であるとは、いったいどういうことなのか。」(ド・マン) ブースは「理解したいという欲望」と言っているのに、ド・マンは「理解すること」と言う。「理解」は停止した状態だろうが、「欲望」は停止させようとする運動である。言語はそもそも動きつつある運動であるから、確かに停止した状態というものは存在しないだろう。しかし同時に、言語は停止させようとする運動・行動なのだ。この二つの次元の異なりを無視しないでほしい。無視・誤読の代償として、ド・マンには細かい言い回しの反復での目くらましと、文末の疑問形(これはまさか反語ではないだろうね!)があるのではないか。 ・読むことの破綻!こいつはそもそも真面目に読む気がない。不真面目さは一つの戦略だろうが、こうしたやる気の無さを宣揚する戦略・思想は、今の時代に有効ではない。かつて存在した高度な敵(圧制者にも一理ある。現実主義者)に立ち向かうためのゲリラ戦としては有効であったが、今の敵はレベルが低く(真偽を弁えぬポピュリズムに味方にした者たち。復活した)には負けるだろう。かつての三すくみ状態(壊滅された低レベルの旧反動勢力→正規革命軍→高度で強力な反動勢力→不真面目なチンピラ集団→復活した低レベルの反動勢力)から、高度な敵の消滅状態へ。 cf. 全体のまとめ、話題にしたいこと ・私は、第1部に学ぶところが非常に多かった。明晰な論述と、予め埋まっていたかのごとき宝との相互作用。第2部も人間の没落の開始として、読み応えがあった。第3部は、地獄に堕ちた人間どもの格闘の軌跡と思えた。そのまま地獄にいろ!お前が地獄だ!と思えるやつもいるが、神無き現代を生きる苦悩は共有したいと思う。 ・テーマは二つですね。一つは想像力論、いま一つは言語の物質性。 ・もちろん本筋のテーマは、崇高とは何か?超越のあり方と言い換えることもできるだろうと思う。楳図的テーマと、全然遠くない。 cf. その他、話題にしたいこと以前の感想など ・若い頃信奉していた記号学、テクスト理論、脱構築には裏切られた感がある。ああも読めるこうも読める合戦は、文学の可能性を開くものではない、と今は思う。 ・文学の側からの想像力論として、E・グラッシ『形象の力』など。また、それが依拠するジャンバッティスタ・ヴィーコ。クリティカとトピカ。インゲニウム。 ・記号学、テクスト理論全盛期には凡庸で見むきもしなかったM・デュフレンヌの言語論『言語と哲学』。H・メショニック『詩学批判』。人間サイズの言語、言語の現象学。 ・ヴィトゲンシュタインは、前期『論考』より後期『探究』だと思っていたが、平板なプラグマティズム(言語ゲーム)で問題を回避した後期より、実在世界と言葉との対応をギリギリで考えた前期のほうに可能性を感じてきた。 ・ベルクソン、ドゥルーズによる、意味の確定を肯定する、現働化の思想。また、その潜在化の思想。物質的尺度(現在の形式)、人間的尺度(過去の形式)と、脱人間的な尺度(未来の形式)。 ・宮崎裕助『判断と崇高』、カントとデリダの可能性。政治性。パラ崇高(エネルゲイアに達しないデュナミスのような)。