星野太『崇高の修辞学』トークショー 芸宿 2017-03-17(Fri) 高橋明彦 ☆前提1 崇高(sublime,hypsos)― カントの美学的 定義(p.15、157)後述 それに対して、テクスチュアル・サブライム(修辞学的崇高)の系譜がある ロンギノスの崇高……「傑出し卓越したロゴス(言葉)」 ☆前提2 哲学(真理に至る正しい言葉)と修辞学(効果的に飾られた言葉)の対立、その間 理解(哲学) ― 説得(ソフィストの術、修辞学・弁論術) ― 陶酔(崇高) ロンギノスの崇高のロゴスの5つの源流(思考、感情 / 比喩、表現、構文) 1-1 ピュシス(自然・才能) / テクネー(人為・技術)。 両者の相互補完性「テクネーはピュシスのミメーシス(模倣→現前化)を通して、真理を現前化する。同時に、ピュシスはその輝きによってテクネーを覆い隠す。」 「テクネーはピュシスを模倣し、ピュシスはテクネーを内包する。」 1-2 絵画や彫刻だけでなく、言葉にも像(eidos,bild,picture)を作る力がある 聴衆にイメージを見せる能力「パンタシアー」。話者の精神(ピュシス)に属する能力であり、話者の感情・情念「パトス」により、卓越したロゴスは話者と聴衆との共感を可能にする。 哲学的には否定されるが、修辞学的には幻覚こそ創造性として評価される。パトス的イメージ ストア派による区分 パンタストン(実在物) パンタシアー(実在物に起因・対応する表象) パンタスティコン(パンタストンを原因としない表象。錯覚) パンタスマ(パンタスティコンによってもたらされる。幻覚) 1-3 引用・反復による崇高なテクストにおける時間性の発現 カイロス(瞬間、時宜を得ること)、アイオーン(後世における永遠性) 「引用」―カイロスとアイオーンの同時実現。現在・過去・未来の競合関係を作り出す行為。 2-4 ボワローによる崇高解釈、パンタシアー概念の改変(パトスによる伝達の排除) 崇高な文体(大げさな言葉)と崇高(並外れたもの、驚くべきもの、いわく言いがたいもの)との区別。 パンタシアーをイメージと訳し、エイドロポイイア(像を作る)を描写・虚構(fictions)と訳した。イメージとは「精神のなかに絵を描くこと」、虚構とは人に驚きや感銘を与えるための「装飾(ornament)」である。ボアローは、イメージがパトスによって媒介されるとは考えず(他人の心をそのまま見ることは出来ないから)、誤訳を犯してまで、「装飾」という言語による可視化のプロセスを想定した。 2-5 E・バークによる崇高解釈、言語の使命(パンタシアーの排除) E・バークは言語のはたらきから、像を作り出す作用(パンタシアー)を排除した。言語は共感(力強い表現)を得意とし、模倣(明晰な表現)を目的としないし、集成語・単純抽象語は像を作りうるが、合成抽象語は像を作り得ず、かわりに共感を実現するがゆえに貴い、とした。 ・単語の3効果 @音(sound) A像(picture)音によって意味される事物の表象 B魂の感動(affection of the soul) ・単語の3分類 集成語 /現実の実在物に対応する語 @ABとも作りうる。 単純抽象語/単純な観念に対応する語 合成抽象語/複雑な要素からなる抽象語 @Bは作るが、Aを作らない。 ・言語の本質は 「明晰な表現」像を作り出すこと(図像的・絵画的な模倣)でなく、 「力強い表現」語り手と聞き手との共感を作り出すことにある。 2-6 カントの崇高論を背後で支える修辞学 カントの崇高論 →近代的、美学的(感性的)、非―修辞学的な崇高概念 @美 /悟性と構想力の一致、質。 崇高/理性と構想力の不一致、量。 A数学的崇高/継起的には把握できるが総括不能な、無限のもの。大聖堂、ピラミッド。 力学的崇高/自らに危害を及ぼさない、大きな力、威力。火山、暴風、津波、瀑布。 →視覚的・感性的経験。が、Bで述べるように実は「崇高はいかなる感性的形式のうちにも含まれない」。 崇高は理性の内部にしかない、とも言われる。 B無限に進展する構想力(想像力)が全体的認識としての理性理念へ至ろうとして失敗するとき、むしろ 超感性的能力としての理性に対する感情が崇高として喚起される。 →感覚的な対象をきっかけとし、超感性的で把握不可能な理性の対象として崇高が感ぜられる。 カントによれば、詩は人をあざむかず心を活気づけ、悟性と構想力の目的にかなうからよいが、修辞学は人をあざむき、人の判断(悟性・構想力・感性の協働)を誤らせる「陰険な技術」である。→プラトン以来の哲学的な言語(修辞学)観、ソフィスト批判。また、ABで述べたように、崇高な対象(数学的、力学的)はきっかけに過ぎず、崇高なものは内的な理性のうちにしかない。にも関わらずカントは、言葉は構想力によって、関係の形式(時間と空間)から解放されて無限の表出(崇高)を可能にする、ともいう。その具体例。 (A)ユダヤの戒律「汝、汝のために刻み込まれた像を決して作りだしてはならぬ。」 (B)イシスの碑文「われは現に存在するもの、かつて存在したもの、これから存在するであろうもの、これらすべてのものであり、死すべきいかなるものであろうとも、わがヴェールを取り除いた者はいない。」 神による「無―表象」(像を作らない)。 しかし、ここでのカントの論理運びこそまさにレトリカルである(理性の内部の声と得体の知れない神の声との区別を不要と言い抜けるレトリック)。かつ「心を活気づける(beleben)」とは構想力の働きの根本であり、そもそも構想力(Einbildungskraft 想像力)は哲学より修辞学に多くの伝統を負う概念である。 3-7 非―垂直的な超越、放物線状の。 ドゥギーのロンギノス論「大-言 le grand-dire」は、ヒュプソス(hypsos 崇高)を「高み」と訳す。修辞における誇張法(hyperbole)とは上方への投擲(hyper-bole)である。思考が到達すべき高みへ至る言語の方法として。 また、比喩(のように comme)は、崇高と相互補完的な関係を持っている。「言うことの起源の神話。最初に交換があった。」「言語には贈与の形式が書きこまれているのであり、それこそがまさしく言語なのだ。」 「何ものも「宙に浮いた」ままでいることはできず、崇高からの再失墜は宿命づけられている」、「崇高」は「落下が宙吊りにされた中断地点なのだ」。この崇高論は感性的/超感性的、美学的/哲学的という二分法を退ける。人間という「死すべきもの」の言語による、神という「不死なるもの」の領域を示す「寓意的な(parabolic)」な運動 3-8 光のフィギュール―ラクー=ラバルトと誇張の哲学 崇高は美と対をなすものではなく、むしろ美が美であることを可能にする根源的な条件である。美はエイドス的に、かたち・外観として現れるが、崇高は「いわく言いがたいもの」として、それ自体は見ることが出来ない「光」として現れる。美のうちにあって、エイドス的な把握に還元されない、それなしでは美が美(かたち・外観)でしかないような、光の輝きが崇高である。この関係は、ピュシスとテクネーの相補性にも見出だされる典型的なパラドクスである。パラドクスとは相反するものどうしの無限の交換、あるいはその双曲線的(hyperbolic)=誇張的な同一性である。対立するものがその極致へいたるとき、逆説的にそれは他方のものと交換可能となる。 3-9 読むことの破綻―ド・マンにおける崇高とアイロニー(疑問か反語か) 文法(字義)通りと修辞の差異。 例1「どんな違いがあるんだ!?」/字義通りか修辞かでなく、疑問(回答許可)か反語(回答禁止)かの違いであり、かつその違いへの問いかけ自体が疑問か反語か決定不能を孕み(どっちなのか?は疑問か反語か?)、結果として回答可能と不能の間で中吊りとなるが、これこそが修辞的なのだ。 例2「踊り子と舞踏をどうして切りはなしえようか」/ふつうは反語と理解されるだろうが、もし疑問ならば妙な説得感があって面白い。言語の反覆可能性。 ド・マンによれば、カント「…観察」における「文字の散文的な物質性」とは、「文字や音節の戯れ」であり、「ついにはわけがわからなり、もはやそれを区別できなくなってしまう」ようなもの、である。 言語の物質性とは何か。反語は停止可能か。(ブースのアイロニー論との関係)